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AC/DC プラグ・ミー・イン!

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先週の『ボン・スコット(AC/DC)/本日28回目の命日!!!』楽しんでいただけましたでしょうか?

僕はといえば先週末、遂に買ってしまいました!
必殺の『PLUG ME IN』コレクターズ・エディション・3DVD・セット(¥8610税込)でございます。

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完全生産限定ボックス。
●フルカラー28Pブックレット
未公開の秘蔵写真/英文ライナーノーツ
●豪華レア・レプリカ・グッズ
コンサート・ポスター、チケット、パス他全8点
●ピクチャー・レーベル
●AC/DCロゴ型押しスリーブケース/デジパック仕様
●日本語字幕(日本盤のみ)
●歌詞/対訳/英文ライナーの翻訳(日本盤のみ)
●バイオグラフィー(1973~2003)(日本盤のみ)
●解説:伊藤政則(日本盤のみ)


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イエ~~~っ!
かなり昂奮しております。

ボン・スコット没後28年を記念したスペシャルDVDセット。
ディスク1は、ボン・スコット・イヤーズ・ディスクで、1975~1979年の主に各国のTV出演時の貴重な映像満載。
僕もほぼYouTubeでしか観たことがなかったボン・スコットの勇姿と、二十歳前後のアンガス・ヤングが必見です!!
これだけクリアーな映像で見せられると、改めてボン・スコットの実力を再確認できるというもの。

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ディスク2は、お馴染みブライアン・ジョンソン・イヤーズ・ディスク。
1981~2003年の白熱のライヴ映像の数々。
ディスク3ビトウィーン・ザ・クラックス(ボーナス・トラック)と合わせ、全7時間、どっぷりAC/DCに浸れるマニア仕様。

1980年、AC/DCがボン・スコットの死後、『バック・イン・ブラック/Back In Black』で軌跡の復活を遂げ、全米を制覇したのはアルバム『悪魔の招待状/For Those About To Rock(We Salute you)』であり、80~83年の彼等の一番ノッていた頃のライヴ映像は極めて少ないそうで、かなり貴重である。

1981年2月の初来日公演(日本青年館)での、ライヴ映像も、既に当時放映したテレビ東京にもマスター・テープのストックがなく、ファンからコピー映像が提供されているそうだが、この3枚組DVDが様々な煩雑な権利関係をクリアし、膨大な準備期間を経て世に送り出されたであろうことは、想像に難しくはない。
僕は当時、武道館公演に脚を運んだが、あいにく最悪の席であったため、今回の映像は実にありがたい。

圧巻は、1991年のモスクワ・ツシノ飛行場でのライヴ。
なんと4週間前にソ連崩壊につながる、有名なクーデターがあったばかりの9月モスクワ公演からの4曲。
1983年以降のフィル・ラッド(D)解雇により、クリス・スレイドが叩いているが、自由を手に入れたロシアのオーディンエンスの熱狂と、それに答えるべくメンバーが極限のテンションで望む “ 悪魔の招待状/For Those About To Rock(We Salute you) ” は凄まじい。恥ずかしながら、こんなライヴがあったことすら知りませんでした。

これからロックをやる者たちに 俺たちからの挨拶だ
撃て 撃て


意味じくも、悪魔の招待状の詞がロシアの若者に突き刺さり、異常なテンションを生み出している名ライヴである!

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そして、1994年以降のフィル・ラッド復帰後のライヴ映像も、いかに彼がAC/DCに必要不可欠なオリジナル・メンバーであるかを痛感する。

改めてボン・スコット時代から、AC/DCを遡って観ていると、一貫したお約束のハード・ロック(アンガス曰く、ロックンロール・バンド)路線は、決してマンネリズムなのではなく、彼等が “ ぶれない独楽 ” であることを証明している。

ぶれない! これは何事を成すにも重要なテーマである。
人は飽きやすいし、すぐ怠惰な方向に流れるのが性。
そう最初は、勢いバランス良く回る独楽とて、徐々にスピード・ダウンし、揺れはじめ、そして止まる……。
しかし一芸に秀でた選ばれし者は、自らトーン・ダウンを跳ね返し、叱咤する術を知っている。
まるでさらに強い回転を加えるべく、叩き回転を加速させる独楽のように。

えっ?
確かに僕は50路のオヤジである。
いいオヤジが、AC/DC大好きです!
でもね、

人間は、悩み多き動物ではあるが、AC/DCの軌跡を観て、真に “ ぶれない独楽 ” の意味を体感し、勇気を得、生きる希望が噴火するというもの。

必見です!



プラグ・ミー・イン~コレクターズ・エディション・3DVD・セット~


1980~AC/DCライヴ映像をYouTubeで、チェック!
(一部、プラグ・ミー・イン収録動画あり)
●ROCKER 1981 TOKYO
●BACK IN BLACK TOKYO 1981
●"LET THERE BE ROCK", TOKYO 1981
●What You Do For Money Honey Live 1981
●Guns for Hire Rehearsals 1983
●Flick of the Switch+Bedlam in Belgium - Live 1983
●TNT (live in Moscow 1991)
●Hells Bells - Moscow 1991
●For Those About to Rock - Live Moscow 1991
●Ballbreaker Live 1996
●Hail Caesar Live 1996
●Soundcheck - 1996
●Hard As A Rock Live 2001
●AC/DC at the Airport,
●AC/DC Stiff Upper Lip Tour Film from Plug me In DVD
●Dirty Deeds [07-30-2003] Toronto Canada
●TNT [07-30-2003] Toronto Canada
●Highway To Hell [07-30-2003] Toronto Canada





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  1. 2008/02/26(火) 18:00:00|
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ボン・スコット(AC/DC)/本日28回目の命日!!!

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本日、AC/DC初代ヴォーカリスト(厳密には2代目)、故ボン・スコット28回目の命日。

1980年2月19日に他界。
偶然にも、毎週火曜更新のこのブラックストライプ。
28年目の今日、大好きなAC/DCボン・スコットの在りし日の晴れ姿を回想してみたい。

このブログに集ってくるロック・マニアにとって、AC/DCを知らない方は皆無だと信ずるが、バンドの来歴はアンガス・ヤング頁と、ヴォーカリスト交代劇についてはAC/DC頁を参照されたい。

さて、過去記事において先述しての通り、AC/DCは1973年暮れ、マルコム、アンガスのヤング兄弟によってオーストラリアのシドニーで結成された。

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最初のライヴは、1973年大晦日。
シドニーのチェッカーズ・クラブでのもので、当時のメンバー構成は、
●デイヴ・エヴァンス(V)
●コリン・バージェス(D)
●ラリー・ヴァン・ネット(B)
●マルコム・ヤング(SG)
●アンガス・ヤング(LG)
だった。

1974年、ヤング兄弟はヴォーカルのエヴァンスとともにメルボルンに転居。
そこで出逢った、ベーシストのマーク・エヴァンスとドラマーのフィル・ラットが加わり、現在のバンドの母体が形成され、最初のシングル “ Can I Sit Next To You Girl/Rockin' In The Parlor ” が録音された。
だが、このシングルは現在のAC/DCサウンドにはほど遠い、軽いグラムロック的なものであり、デイヴ・エヴァンスのヴォーカルも凡庸なもので、反響を呼ぶほどの仕上がりには至らなかった。

そのせいか、1974年暮れ、デイヴ・エヴァンス脱退。
そこで新たなるヴォーカリストとして、ヤング兄弟が白羽の矢をたてたのが、なんと当時バンドの運転手だったボン・スコットであった。

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ボン・スコット(本名ロナルド・ベルフォード・スコット)は、1946年7月9日に生を受け、ヴァレンタインズのメンバーとして、1960年代後期のオーストラリアのポップ界で、それなりの成功を経験。
ヤング兄弟より年上でありながら、もう一度シーンへの浮上を夢見ながら、AC/DCの運転手に甘んじていたボン・スコットは、ふたりの申し出を快諾した。

根っからのロックンローラーで、豪放な性格にワイルドな歌詞センスを持ち合わせたボン・スコットを得、バンドは本格的にクラブ・サーキットを開始。

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こうして1975年、オーストラリアでのデビュー・アルバム『High Voltage』をリリース。早くも同年内にオーストラリア盤セカンド・アルバム『TNT』が発売される。


ハイ・ヴォルテージ [完全限定生産] / AC/DC

実は現在、僕らが認識しているEPIC盤『High Voltage』は、翌1976年にAC/DCがアトランティックと契約、北米・欧州での国際デビュー盤として、上記オーストラリア盤2枚を編集したものである。
豪州盤『High Voltage』からは、
“ Little Lover ”
“ She's Got Balls ” の2曲。
豪州盤『TNT』から、
“ It's A Long Way To The Top ”
“ The Rock n Roll Singer ”
“ The Jack ”
“ Live Wire ”
“ T.N.T ”
“ Can I Sit Next to You Girl ”
“ High Voltage ”
という選曲であった。
因に、国際盤に収録されなかった豪州盤『High Voltage』の6曲は、バンドが世界的な成功を収めた1984年になって『'74 jailbreak』(EP盤)として世界発売。


74 ジェイルブレイク [完全限定生産] / AC/DC

同じく国際盤に収録されなかった豪州盤『TNT』の1曲は、1997年発売『Bonfire』ボックスセットにて初めて日の目を見た。


AC/DC AC/DC / Bonfire (輸入盤CD)

しかし、国際盤『High Voltage』をきっかけに、オーストラリアのローカル・バンドから脱皮すべく、バンドは英国に移住。元々ヤング兄弟もボン・スコットもスコットランド出身でもあり、バンドは小さな劇場やクラブ廻りを中心とした低予算ツアーを展開しながら、当時パンク一色だった英国ロック・シーンに次第に浸透していく。

その頃、一時帰国して録音した豪州盤『Dirty Deeds Done Dirt Cheap』は、英米アトランティックにより大幅に編集され、1980年に同名でアメリカ盤(日本盤『悪事と地獄』として)がリリースされた。


悪事と地獄

1977年3月、豪州盤『Let There Be Rock』リリース。
またしても、アトランティックの不評を買い大幅な手直しを経て、6月に世界発売(日本盤『ロック魂』として)された。


ロック魂

ここに至るまで、アトランティックによってバンド・イメージは大幅に改善されていく。豪州のローカルでチープなユーモア(アンガスの学生服、ボンの奇行)を、アトランティックは出来る限り制御し、その良い部分だけを生かしながらサウンド面ではバンドが世界のマーケットに通用するべく、よりストレートでシリアスなロック・バンドとしてプロデュースした。

AC/DC自体もそれを容認し、1978年初頭の『パワーエイジ/Powerage』では、初めて豪州盤と世界盤の内容が統一され、洗練されたものとなる。


パワーエイジ

同年継続されてリリースされた『ギター殺人事件/If You Want Blood You've Got It』発表後、エアロスミスのUSツアーの前座に抜擢されるまでになっていた。


[枚数限定][限定盤]ギター殺人事件/AC/DC

同ツアー中、クリーブランド公演でボンが、

「おい、みんな少し後ろに引いてくれ。怪我するぜ!」

と、当時ドラッグ地獄真っ只中のエアロを尻目に、熱狂的なオーディエンスの指示を受けていた。

勢いに乗ったAC/DCは、初期の名盤『地獄のハイウェイ/Highway To Hell』をリリース。
大成功を収める。


地獄のハイウェイ

日本でも、1979年3月7日16時(学生向けライヴ)と19時中野サンプラザ、12日芝郵便貯金ホール公演が予定されていたが、チケット・セールス不振とプロモーターの経営難から中止。
惜しくもこれにより、ボン・スコット在籍のAC/DC来日は叶わぬ夢となってしまう……。

日本公演が果たせなかった彼等は、1979年初頭から若手プロデューサー、ロバート・“ マッド ”・ラングを起用して、初めてロンドンでじっくりと次作の曲作りに入る。

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そして28年前の今日、1980年2月19日未明。
友人のアリステア・キニアーと飲み泥酔、彼の車で帰宅。しかしアリステアは、ボンが車の後部座席で寝込んでしまったため車を離れる。
その後眠りながら、自らの嘔吐物を咽に詰まらせ窒息死しているところを発見され、帰らぬ人となった。34歳だった。

ボン・スコットの死因については、ヘロイン過剰摂取、排気ガス吸引による自殺説や、アリステア・キニアーとう人物は存在しなったなど、様々な憶測が取り沙汰されたが、持病の喘息持ちの上、当日の零下を下回る気温などによる喘息の発作が誘因したものであるとされている。
因に同年の9月25日、ツェッペリンのジョン・ボーナムも同様の要因で32歳で逝ってしまった。そして12月8日にはジョン・レノンが銃殺された。
一体、1980年という年はどうしたというのだろう?

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とにかくボンの悲報を聴いたヤング兄弟は曲作りを中断し、オーストラリアに帰国。埋葬後、ボンの母親からバンド継続を説得され、新たなる三代目現ヴォーカリスト、ブライアン・ジョンソンを獲得する。

前作『Highway To Hell』の成功と、そのヴォーカリストを失ったメンバーとプロデューサーのプレッシャーは並大抵ではなかった。
新顔のブライアンとて同様である。

「マルコムにいわれたんだ。これは『Back In Black』というタイトルなんだけど、未だ詩もなきゃメロディもなく、あるのはリフだけだ。ボンへのトリビュートにしたいけど、暗い内容じゃ駄目だ。そんなところでこれを明日までに形にしてくれないか、ってね」(ブライアン・ジョンソン談)

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当時のAC/DCの混沌とした状況が垣間見える談話である。
結果ボンの死をバネに、ブライアンの作詞能力とヤング兄弟の曲作りが見事に合致し、『Back In Black』は彼等の最高傑作となる。
一説には、世界で最も売れた5枚の一つ、ダブル・ダイヤモンド(プラチナ・アルバム20枚分に匹敵)アルバムとまでいわれる。


AC/DC/バック・イン・ブラック(完全生産限定盤)(CD)

ボン・スコットの今日の命日を記念し、昨年末から初期作品を含めAC/DCのアルバムCDが続々再リリースされた。
『Back In Black』は、2月18日付けの最新オリコン・アルバム総合ランキングで、277位4128枚を売り上げている(1月23日発売。初登場76位)。

そして2006年にはボンの墓が、オーストラリアの重要保存建造物に指定され、年間数千人訪れるファンや観光客から保護されている。
にも関わらず、同年7月9日の60回目の誕生日にあたる日、墓から記念碑が盗まれたそうだ。
どうなってんだよ! おい!!

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♪AC/DCオフィシャルHP



『High Voltage』から動画をチェック♪
●Little Lover - Alternate Version
●She's Got Balls
●Rock 'n' Roll Singer legendado subbed
●The Jack Live Arnhem 1979
●Live Wire
●T.N.T
●Can I Sit Next to You Girl
●High Voltage

『Dirty Deeds Done Dirt Cheap』から動画をチェック♪
●Dirty Deeds Done Dirt Cheap
●BIG BALLS
●Rocker (Colchester, 28.10.1978)
●Problem Child

『Let There Be Rock』から動画をチェック♪
●Dog Eat dog
●Let There Be Rock, 1978
●Bad Boy Boogie
●"Whole Lotta Rosie" - Live 1978

『パワーエイジ/Powerage』から動画をチェック♪
●Rock `N `Roll Damnation
●Riff Raff Live 1978
●Sin City 1978

『地獄のハイウェイ/Highway To Hell』から動画をチェック♪
●Highway To Hell
●Girls Got Rhythm
●Walk All Over You
●Touch Too Much
●Shot Down In Flames
●If You Want Blood (You've Got It)

●Back in Black Live at Donington

改めて、故ボン・スコットの冥福を祈る……。



♪追悼ボン・スコット入場無料フィルム・コンサート

♪AC/DC OFFICIAL ITEM SHOP IN JAPAN






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  1. 2008/02/19(火) 18:00:00|
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B.B.キング/大人のギタリスト講座30。

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1960~1970年代のロック創成期において、若いギタリストたちに慕われ、多大な影響を与えた一人、Mr.キング・オブ・ブルースことB.B.キングの登場です。

1925年。
日本では、1月14日に三島由紀夫が生まれ、3月22日東京放送局(現NHK)がラジオ放送を開始した年である。
同年9月16日、B.B.キングは米国ミシシッピー州イッタ・ベナ近郊に生を受けた。

本名はライリー・B.キング。
自ら “ ビール・ストリートから来たブルース・ボーイ ” と呼び、それが略されてブルース・ボーイと呼ばれ、最終的にB.B.キングと呼ばれるようになった。

両親がエルクホーン・ジュビリー・シンガーズというゴスペル・グループで、パート・タイムのシンガーだったことから、彼の音楽キャリアもゴスペルを歌うことからはじまったとされる。

1933年。キングが8歳のとき、伯父の義兄弟であった伝道師アーチ・フェアーが訪ねてきて、フェアーが持ってきたギターに初めて触れることとなる。
アーチ・フェアーは幼いキングに、C. F. Gの3つのコードを教え、そのコード進行I - IV - Vも習った。
10代で農場労働者となったキング少年は、働いた給料で最初のギター、ステラのアコースティック・ギターを手に入れ、ラジオから流れてくるジャズ、ブルース、カントリー&ウェスタンといった音楽をコピーしはじめる。

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B.B.キングが初めて聴いたブルースは、叔母が所有した78回転盤のレコードで、
●ブラインド・レモン・ジェファーソン
●ロニー・ジョンソン
●ロバート・ジョンソン
●バンブル・ビー・スリム
●チャーリー・パットン
だった。
その頃第二次世界大戦中にも関わらず、彼は街角に立ってブルースをプレイしたところ、より投げ銭が増えたことから貧しかった彼は、単純にブルース・プレイヤーになることを決心する。

そして、
●エルモア・ジェイムス
●クラレンス “ ゲイトマウス ” ブラウン
●ライトニン・ホプキンス
●ローウェル・フルソン
●ビッグ・ジョー・ウィリアムス
といったブルースマンに傾倒し、中でもTボーン・ウォーカーの “ Stormy Monday ” には特に影響されたそうだ。

「いくらやっても、全く出来ないんだ。自分の指がアホなんじゃないかと思ったよ」(B.B.キング談)

実際、キングはアール・フッカーや従兄弟のブッカー・ホワイトたちが演奏するスライド・ギターの演奏法が理解できなかったそうで、後年彼の十八番となった独特のヴィヴラート奏法は、スライドの音色を真似ようと努力した結果の副産物であった。ラジオ時代ならではの逸話である。

やがてジャズにも興味をもったキングは、
●チャーリー・クリスチャン
●ジャンゴ・ラインハルト
●バーニー・ケッセル
●ケニー・バレル
●ルイス・ジョーダンズ・ティンパニー・ファイブ
などに親しみ、さらにジョニー・ムーアからは、9th.13thのコードを習得した。

1946年21歳のとき、農場の小作人を辞めメンフィスへ移住。
ナイト・クラブで仕事を得、ルイス・ジョーダンダイナ・ワシントン、ロイ・ブラウンらと演奏することになったが、生活は貧窮を極め又従兄弟のブッカー・ホワイトと生活を共にして凌ぎ、ほどなくして全米初の黒人が運営するラジオ局WDIAのコマーシャル・シンガーの仕事を得る。
このとき、安いフルアコのギブソンfホールのエレクトリック・ギターを購入。

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1948年、ミシシッピー時代の農場の地主への借金を完納。
サニー・ボーイ・ウィリアムソンに招かれ、KWEM局のラジオ・ショーで演奏。

1949年。
ブレッド・レーベルで、“ Miss Martha Take A Swing With Me ”、“ How Do You Feel When Your Baby's Packed Up To Go ”、“ I've Got The Blues ” を初レコーディング。

ここでB.B.キングの有名なギター、ルシールの命名事件が起きる。
アーカンソー州のクラブで演奏中、男性客2人がある女性(ルシール)をめぐって取っ組み合いの喧嘩をはじめた。照明が倒れ、引火、クラブは大火事となってしまった。一旦逃れたキングはギターを取り残してきたことを思い出し、火の燃え盛るクラブの中に飛び込んでギターを救出したのだが、翌日の新聞で、2人の死亡者を出す思いがけない大惨事だったことを知り、無謀な自分の行動を反省する意味で、愛用のギターをルシールと呼ぶようになったのである。

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1950年代、モダン・レコードで活躍していた彼は、
●ギブソンES-5
●フェンダー・ブロードキャスター
●ギブソン・バードランド
●グレッジ
●エピフォン
●シルヴァー・トーン
と、数々のギターを持ち替えたが、1985年にギブソンのセミアコ・ボディ・シンライン・エレクトリックES-335購入。
翌年ギブソンES-335を購入。これが以後B.B.キングのフェイヴァリット・モデルとなった。

B.B.キングはギター以外にも、ピアノ、ベース、ドラム、ハーモニカ、ヴァイオリン、クラリネットなどをこなすが、

「いろんな楽器を弾くことで、ギター・フレージングに効果があるんだ。増してプレイが流暢になるな」(B.B.キング談)

と語っており、独学で楽器を習得した彼は、後年やはり独学で譜面の勉強もしている。

「譜面を読むことは、僕がスペリング(書き取り)と呼んでいるもので、ゆっくり綴りを確認するようにスペルする、詰まり読むのさ。メトロノームが急かさなきゃ、結構上手に読めるんだよ」(B.B.キング談)

このように彼の音楽への探究心は、飽くなきもので、さらにホーン・プレイヤーの、
●クーティー・ウィリアムス
●ジョニー・ホッジス
●ボビー・ハケット
●エディー・クリーンヘッド・ヴィンソン
●ルイス・ジョーダン
などからも多いに感化された。

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B.B.キングのプレイは、シングル・ノートのマイナー・ペンタトニックが基盤であるが、歌いながら弾く方法をとらなかったため、逆にソロやフィルの工夫に専念できたといわれる。特にワン・フレーズを歌った後、まるでギターとヴォーカルが問答するように、短いフレーズでギターがヴォーカルを追いかけるコール・アンド・レスポンスが特徴的である。
他にも前述した、スライド・ギターを真似て習得したパワフルなヴィヴラートもさることながら、必要ならば左手5本の指全てを駆使して繰り出されるドラマティックなチョーキングも、他の追従を寄せつけない彼ならではのものである。

「プレイしているときも、ずっと歌っている感覚だよ。みんなみたいに音を沢山つかって弾かないのはそのためさ。ソロを弾いていても、僕にはギターを通して歌っている自分の声が聞こえてくるんだ」(B.B.キング談)

1980年、ギブソン社が fホールを無くしたES-335仕様の、B.B.キング・カスタム・モデルを開発。
1988年には同モデルが、B.B.キング・ルシール・モデルとして有名になったが、キング自身も何本か所有している。仕様ピックはミディアムで、弦はアーニー・ボールの.010 .013 .017 .030 .045 .054のセットを使用した。

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1951年、ローウェル・フルソンのカヴァー曲 “ Three O'Clock Blues ” リリース。全米R&Bチャート1位獲得。

1960年代前半には、後に多くのアーティストが取り上げるスタンダード・ナンバーとなった “ Rock Me Baby ” を発表。

1965年、前回のマーク・ノップラーもファエヴァリットと豪語する、歴史に残る名作『Live At The Regal』発表。


ライヴ・アット・ザ・リーガル

1969年に発表された “ Thrill Is Gone ” のリメイク(原曲はロイ・ホーキンス)で一躍有名になる。1970年代に入っても活躍が続き、1951年から1985年までの間に実に74回ビルボードにチャート・インを果たす。

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1980年~2000年までは、アルバムのリリースは減らし、TVショーへの出演やライブへの出演が多くなり、ライブ回数は年に300回にも及んだという。

1997年のアルバム『Deuces Wild』にはヴァン・モリソンドクター・ジョンローリング・ストーンズウィリー・ネルソン等、B.B.キングを慕うアーティストが大挙参加。2000年にはエリック・クラプトンとのアルバム『Riding With the King』を製作。


デューシズ・ワイルド


B.B.キング&エリック・クラプトン/ライディング・ウィズ・ザ・キング

御歳83歳の、Mr.キング・オブ・ブルースはいまも健在だ!

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♪B.B.キング公式HP



B.B.キングの動画をチェック!
それにしてもクラプトンが、いかにB.B.キングから音楽的な影響を受けているか痛感します。

●B.B. King on Ralph Gleason's Jazz Casual 1968 Part 1
●B.B. King on Ralph Gleason's Jazz Casual 1968 Part 2
●Three 3 O'clock Blues
●Rock Me, Baby
●The Thrill is Gone
●bb king & Gladys night, please send me someone to love
●B.B. King & Buddy Guy - I Can't Quit You Baby
●Ain't Nobody Home
●Paying The Cost To Be The Boss (Crossroads)
●Eric Clapton and B.B. King - Riding With The King
●JEFF BECK with B.B. KING - Key To The Highway
●BB King, Billy Preston and Bruce Willis - Sinners Prayer
●B.B. King & David Gilmour
●B.B. King Live Japan 1989
●Gary Moore & Bb King - Since I Met You Baby
●Steve Ray Vaughan - The Sky is Crying ( Albert and BB King)
●BB King and Friends All Star Cast






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  1. 2008/02/12(火) 17:00:00|
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マーク・ノップラー/大人のギタリスト講座29。

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1980年代に、頻繁に出かけた様々なロック・バンドの日本公演の中でも、僕の中で突出して思い出に残る英国のバンド、ダイアー・ストレイツ。
今回はそのギタリスト、マーク・ノップラーにスポットを当てたい。

「音楽理論なんかに染まって、自分のプレイの価値を下げるなんてとんでもない間違いだ。そんなもの聴こえちゃこないし、眼にも見えない。だって自分の信条と違うだろ?」(マーク・ノップラー談)

1949年。
日本では、日本国有鉄道が設置され、ソ連(現ロシア)が核兵器保有を宣言。本格的な米ソ冷戦時代に突入した。
そんな年の8月12日。
マーク・ノップラーは、スコットランド、グラスゴーに生を受けた。

ケルト・ミュージックに親しみ、伯父のキングスレーが弾くブギ・ウギ・ピアノを聴かされ、初めてロックンロールの存在を知ったのは彼が9歳のときだった。
そんなきっかけで、ラジオから流れてくる音楽に耳を傾け、レコードを買うようになる。
最初に気に入ったのは、スキッフルのロニー・ドネガンで、母親にジャグ、ウォッシュ・ボードをかき鳴らすレコードを盛んにねだるようになる。

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1955年、6歳のとき家族と共にイングランド、ニューキャッスルに移住。
1964年、15歳のときに初めて赤いストラト・シェイプのヘフナーV-2を手に入れた。ここで本格的にロカビリーやロックンロールにはまっていく。
●スコッティ・ムーアがギタリストのエルヴィス・プレスリー
●ジェイムズ・バートンがギタリストのリッキー・ネルソン
●デュアン・エディ
●ジミー・ギルマー&ファイヤーボールズ
●ジェリー・リー・ルイス
●チェット・アトキンスがギタリストのエヴァリー・ブラザーズ
●ビートルズ
●ローリング・ストーンズ
●キンクス
●ハンク・マーヴィン&シャドウズ
などなど、夢中で聴きまくった。

そしてこの頃。マーク・ノップラーが影響を受けたミュージシャンで特記しておかなければならないのが、ボブ・ディランである。

「ボブ・ディランは最初から聴いていたよ。14歳から15歳の頃、ディランから受けた影響は尋常じゃなかった。女の子の家を巡り回ってはコーヒーを75杯も飲んだり、タバコを90本も喫って、『Blond On Blond』を120回も聴きまくったんだ」
(マーク・ノップラー談)

実際、1978年ダイアー・ストレイツのデビューを経て、翌年1979年発表のディランのアルバム『Slow Train Coming』にセッション参加した彼は、後年1983年にもアルバム『Infidels』で、ディランからプロデュース依頼を受けるまでに、その付き合いは親密なものとなっている。

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1965年、16歳の頃には米国のブルースへと興味が広がり、
●ブラインド・ウィリー・マクテル
●ブラインド・ブレイク
●ロニー・ジョンソン
といったオールド・ブルース・ギタリストや、
●ハウリン・ウルフ
●B.B.キング
といったシカゴ・ブルースへと傾倒していく。
特にB.B.キングの『Live At The Regal』は、フェイヴァリット・ブルース・アルバムだと豪語する。

当初、ロックンロール・バンドで演奏していたマーク・ノップラーは、友人から借りたフォーク・ギターで、いまや彼の十八番となっているフィンガー・ピンキングを習得すべく、フォーク・クラブでも演奏するようになる。

しかし1960年代から、1978年ダイアー・ストレイツのデビューまで、マーク・ノップラーのミュージシャンとしてのキャリアは、決して順風満帆とはいかなかった。その辺りの経緯は、過去記事を参照されたい。

そして、そのデビューまでの苦悩の時代に彼は、独特のフィンガー・ピッキング・スタイルを確立する。
右手親指と人差し指、中指以外をほとんど使わない。
指の肉部分でつま弾きウォーム・タッチにしたり、爪で弾きパーカッシヴなトーンを鳴らしたりと変幻自在なフィンガー・ピッキングが特徴的である。
そして、薬指と小指は1弦の下のボディにあてがい、手首はブリッジに固定してしまう。故にコードを弾く場合も、親指にはめたフラット・ピックでストロークせずに、親指、人差し指、中指で弦をつかみつまみ上げるようにして、ピアノのコード・アタックのように鳴らす。

ミック・グリーンがやっているように、ピックを使ってリズム/リードみたいなものを弾いていたんだ。そしたら、フィンガー・ピッキングと、ピック使用の効果がうまく一緒になって、面白いものになってきたんだ」(マーク・ノップラー談)

そしてこの頃、J.J.ケイルから最も大きな影響を受ける。
「自分のスタイルができあがっていく頃、随分J.J.ケイルを聴いたよ。彼はとにかく特別な存在さ」(マーク・ノップラー談)

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ディランほか、様々なジャンルのミュージシャンから敬意を表されるマーク・ノップラーの所蔵エレクトリック・ギターは、
●1928年製ナショナルのリゾネイター
●フェンダー・ストラトキャスター
●1960年代初期のギブソン・レスポール・スペシャル
●1980年代後期のペンサ・スールおよびルーディー・ペンサ・ストラト
●シェクターのストラトおよびテレキャスター・モデル
●バーンズ・ボールドウィンの12弦
●1953年製ギブソン・スーパー400アーチド・トップ
●ギブソンES-335セミアコ・シンライン
使用弦はダダリオXL-120(.009~.042)。
アコースティック・ギターは、
●カスタム・メイドのオヴェイション・アダマスの6弦と12弦、レジェンド
●ギブソン・J-45
●1925年製テイラーのL-3アーチド・トップ
●ギブソン・チェット・アトキンス・エレクトリック・クラシカル
●ラミレス・クラシック
といったところである。

「彼がダイアー・ストレイツ『悲しきサルタン/Sultans Of Swing』を出したとき、町に住むヤッピーが、マーク・ノップラーっていうグレイトなギタリストがいるから聴いてみなよ! って教えてくれたんだ。さっそくラジオでチェックしたんだけれど、すっかり彼のプレイに魅了されたよ」(チェット・アトキンス談)

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冒頭にも書いたが、1980年代に僕は日本青年館でダイアー・ストレイツのライヴを体験した。
とにかく音がいい。そして実際のライヴではうねるようなグローヴがあり、メンバー自身が踊りだすのではないか? の寸前で自己を抑制し、正確な演奏に徹する姿がもの凄い緊張感をもって迫ってくる。
今も思い出に残る、白熱のライヴであった……。

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悲しきサルタン

♪『悲しきサルタン/Sultans Of Swing』から動画をチェック!
●Down to the Waterline
●Six Blade Knife
●Sultans of Swing
●In the Gallery
●wild west end live
●Lions


ラヴ・オーヴァー・ゴールド

♪『ラヴ・オーヴァー・ゴールド/Love Over Gold』から動画をチェック!
●Telegraph Road - Mark Knopfler - Live 2005
●private investigation
●Industrial disease (1982)
●Love over gold


ブラザーズ・イン・アームス

♪『ブラザーズ・イン・アームス/Brothers in Arms』から動画をチェック!
●So far away
●Money for nothing (1984)
●walk of life
●Your Latest Trick - live in Basel 1992
●Why Worry
●Ride Across The River
●The Mans Too Strong (Wembley Arena)
●Brothers In Arms

♪ソロ活動から動画をチェック!
●Going Home - Local Hero
●Boom Like That Video
●What It Is
●The Notting Hillbillys - Why Worry
●Layla - Mark Knopfler and Eric Clapton duet
●Mark Knopfler & Chet Atkins - Poor Boy Blues





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