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レッド・ツェッペリン終章/年末スペシャル特集3。

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破竹の勢い、ついに失速。
巨大な飛行船が除々に低空へと、迷走することとなるのが、1976~1980年である。

1975年2月発売の『フィジカル・グラフィティ/Physical Graffiti』の成功。
1975年5月のロンドン・アールズ5夜コンサートも大成功に終わった頃、メンバーはスイス、モントルーに揃って移住した。
巨額を稼ぎ出すツェッペリンは、英国から重税を科せられた。それから逃れるための苦肉の策であったが、メンバーはこれを機に充電期間に入ることになる。

まずロバート・プラントが家族で、モロッコ旅行に出かけ、ジミー・ペイジと合流し、エスニック・ミュージックの探求と、秋からのUSツアーのプランニングに明け暮れていた。

しかし8月4日、ギリシアのロードス島観光時、プラント一家のレンタカーが交通事故を起こし、プラントは足首と肘を複雑骨折。秋のUSツアーはキャンセル。
それでもプラントの療養を兼ね、メンバーはロスに集まり、ハリウッドのスタジオでリハーサルに勤しむ。
11月には、ドイツ、ミュンヘンに飛び、レコーディング。
スタジオには次のストーンズの予約が入っていたため、レコーディング・ミキシングを18日間で済ませ、1976年3月『プレゼンス/Presence』は発表された。
アルバムは英米1位を獲得。大成功を収めるが、プラントの体調は完治していなかったため、ニュー・アルバムに合わせたツアーは断念。


プレゼンス / レッド・ツェッペリン

かわりに、1973年7月27~29日のニューヨーク公演を収録した映画の仕上げに取りかかる。この映像プロジェクトは、撮影不備により73年にステージを再現して一部再録したり、監督の交代などから、大幅に完成が遅れていた。
1976年9月、2枚組サウンド・トラック『永遠の詩(狂熱のライヴ)』発売。
そうして10月、137分の長編映画『狂熱のライヴ(永遠の詩)』は封切られた。


永遠の詩(狂熱のライヴ)~最強盤 / レッド・ツェッペリン

映画の準備期間を経ることで、体調が回復したプラントとメンバーは、1977年1月からの全米ツアーのリハーサルを開始。
しかし、折りしも英国音楽シーンにはパンク・ムーヴメントが吹き荒れていた。
巨額の金にまみれ、夜毎酒池肉林に溺れる巨大ロック・バンドは、古くさいロックとして中傷されることとなるのである。

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2月スタートの全米ツアーだったが、またしてもロバート・プラントが扁桃腺炎を患い4月1日テキサス州ダラス公演からに延期。
以後、4ヶ月49公演。
4月30日ミシガン州ポンティアックでは、76229人を動員し、有料単独公演入場者数の新記録を樹立。
しかし、パンク・ムーヴメントの影響が波及していなかった米国で、順風満帆に見えたツェッペリンだったが、確実に暗い影が忍び寄っていたのである。
長期に渡るスタジアム・クラスでの演奏は、メンバーの体力を着実に蝕んでいく。
とりわけ、ジミー・ペイジとジョン・ボーナムが、その消耗からそれまで以上にドラッグとアルコールに浸るようになる。
事実、4月9日シカゴ公演で、ジミー・ペイジの体調不良により、コンサートが中断。
6月3日のタンパ公演は雨天により、3曲で終了。不満な観客が暴動を起す。
7月23日オークランド公演では、バック・ステージでマネージャーのピーター・グラントと、大物プロデューサー、ビル・グレアムのスタッフが揉め、グラントとボーナムを含む4名のスタッフが障害の罪を科せられた。
さらに、悲劇は続く。
7月26日、ニューオリンズのコンサートに向け飛んだプラントに悲報が届く。
なんと5歳になる息子カラックが、ウィルス感染により死亡。
残るツアーは全てキャンセル。
ショックから自宅に引き蘢ったロバート・プラントとツェッペリンは長い休眠状態に突入するのである。

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1978年5月。
遂にメンバーの説得に折れたロバート・プラントが重い腰を上げる。
ウェールズのクリアウェル城でリハーサル開始。
その間、ドクター・フィールグッドデイヴ・エドモンドとセッションし、ライヴ感覚を取戻したプラントは、メンバーとともにストックホルムの、アバ所有のスタジオに入り、レコーディングを開始。
だが、ジミー・ペイジの不調がたたり、ヤマハGX-1シンセサイザーを入手したジョン・ポール・ジョーンズが主導権を握り、サウンドはキーボード主体なものへと変貌する。
1979年8月、こうして8枚目のアルバム『イン・スルー・ジ・アウト/In Through The Out Door』が発売された。


イン・スルー・ジ・アウト・ドア

8月4日。
ネブワース・フェスティバルのヘッド・ライナーとして、久々にツェッペリンがステージに上がると報道されるや、16万枚のチケットは即日完売。11日には追加公演が決定。
3年のブランクは、パンク・ムーヴメントを追い払い、折しも英国で芽生えていたNWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィメタル)と、米国産業ロック勢が、ことごとくツェッペリンからの影響をカミング・アウトしたため、8枚目のアルバムも英米1位を獲得する大成功を収めた。

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紆余曲折ありながらも、1981年1月の全米ツアーも決まり、80年9月24日にリハーサルを開始。
しかし、77年7月のビル・グレアムとのトラブルが尾を引き、米国ツアーにナーバスになっていたジョン・ボーナムがスタジオに向かう途中、4杯のウォッカを飲む。
当時はフュージョンやクロス・オーヴァーのドラム・スタイルへの憧れから、自らのプレイにも迷いがあったようだ。
リハーサルでも飲み続けるボーナムに呆れ、ジミー・ペイジとロバート・プラントは早々にウィンザーのペイジの邸宅に引き揚げる。
その後のペイジ宅での夕食会でもウォッカを煽り続け、酔いつぶれた彼は、深夜零時頃寝かされた。
結局翌日25日午後になっても、顔を見せないボーナムの様子を見にいったローディが、彼の死を確認することになる。
40杯ものウォッカにより泥酔したジョン・ボーナムは、自らの嘔吐物を気管に吸い込み、肺浸水により、わずか32年の生涯を閉じたのである。

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10月7日、ジョン・ボーナムの葬儀終了後、メンバーはツェッペリンの活動停止を決意。
1980年12月4日。正式に解散声明が発表されたのである。

アトランティックとの契約から、未発表テイクをジミー・ペイジがプロデュース、オーヴァー・ダビングを重ね『コーダ(最終楽章)/Coda』は、1982年11月に発表。名実共にバンドはその活動を締めくくった。


レッド・ツェッペリン/コーダ(最終楽章)<2005/5/25>

1967~1980年。
わずか13年間のレッド・ツェッペリンの歴史は濃密なものである。
その限られた期間で、ライヴ盤を含むオリジナル・アルバムが10枚。
これから、ツェッペリン体験される若い方々には、アプローチしやすいのではないだろうか?
そして、クラシック・ヴァン・ヘイレンの復活にも見られるように、90年代まででハード・ロックが完全に歴史として停滞してしまった現状……。
その要因として、あまりにも巨大な飛行船の墜落により、シーンが新しいハード・ロックを精製できなくなってしまったことを噛み締め、今後を担う20世紀型の新しいロックを渇望してやまない。

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♪レッド・ツェッペリン公式サイト



『プレゼンス/Presence』動画をチェック!
●Achilles Last Stand
●For Your Life-London-10 December 07
●Royal Orleans
●nobodys fault but mine
●Candy Store Rock
●Hots On For Nowhere

『イン・スルー・ジ・アウト/In Through The Out Door』動画をチェック!
●In the Evening
●South Bound Saurez
●Fool in the rain
●Hot Dog
●Carouselambra
●All My Love
●I'm Gonna Crawl

『コーダ(最終楽章)/Coda』動画をチェック!
●We're Gonna Groove
●Poor Tom
●I Can't Quit You Babe
●Walter's Walk
●Ozone baby
●Darlene
●Bonzo's Montreux
●Wearing and Tearing





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  1. 2007/12/25(火) 20:57:17|
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レッド・ツェッペリン/年末スペシャル特集2。

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アトランティック・レコードの創立者アーメット・アーティガン追悼コンサートが、大成功に終わったツェッペリンだが、様々な波紋を呼んでいるようだ。

同コンサート出演決定時、本格的な再結成はない、とロバート・プラントが正式に否定したはずが、ここにきてふたたび再結成の噂が乱れ飛んでいる。

しかし、ジミー・ペイジはジェフ・ベックとともに今秋、“新生” ヤード・バーズとして再結成・ツアーの準備を進めているという。
これが本当なら、やはりツェッペリン再結成はデマだということになるのだが……。

先述したとおり、そもそもヤード・バーズはジミー・ペイジの中では完結し、ツェッペリンへと進化をとげたわけであり、いまさら “新生” ヤード・バーズ
を復活させる意味はあるだろうか?
ヤード・バーズは、クラプトン→ベック→ジミー・ペイジと、いわゆる1970年代3大ギタリストが在籍したことにより、現在まで伝説となっているバンドなのだ。
ましてや今回の “新生” ヤード・バーズには、クラプトンは参加しないという。

ヤード・バーズをリアルタイムで、知っている世代は1940年代に生まれた人々である。ツアーの興行セールスを考えても、圧倒的に不利なのではないか。
そう考えていくと、再結成ツェッペリンのほうが世代を越えての支持があり、有利である。現に冒頭の追悼コンサートの、日本人席では沢尻エリカ嬢が熱い声援を送っていたというし。
ひょっとしてひょっとしたら、レッド・ツェッペリン再結成はあるのかも……。

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と、まあ前置きが長くなってしまいましたが、前回に引き続き第二期(1970~1975年)、レッド・ツェッペリン絶頂期を振り返ってみたい。

デビュー作、セカンドアルバムで早くも成功し、1970年4月まで続いた1年6ヶ月に及んだツアー生活と、ヒット・チャートという新たな気苦労は、メンバーの身も心も激しく消耗させることになる。
さらに、サポート・ギタリストとして業界経験の長いジミー・ペイジは、ことさらラジオ受けを狙い、マンネリズムの渦に埋没していくバンドを散々見てきたのだ。
そのような悪例の中に浮沈しないためにも、ヤード・バーズ解散当初の新バンド(後のツェッペリン)を構想した折りに抱いていたもう一つの選択肢、フォーク・テイストの導入へとジミー・ペイジの思考が動いたことは、必然でもあった。

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1970年4月。メンバーの休息と、ツェッペリン持続、新たなるプランニングのため、ジミー・ペイジとロバート・プラントはそれぞれの家族を伴い、南ウェールズの小村に赴くのである。
通称ブロン・イー・アーと呼ばれる、電気もインフラされていないコテージ生活で、気が向けばアコースティック・ギターをかかえ、焚火を囲んで曲作りをしたという。

そこで生まれた曲の数々には、ペイジとプラントが予てより傾倒していた、フェアポート・コンヴェンションペンタングルといった英国トラッド・フォーク、米国ウェスト・コースト・サウンドなどから、触発されたテイストがちりばめられていた。
それらの余韻を活かすべく、3rdアルバム『レッド・ツェッペリンlll/Led Zeppelin lll』のレコーディングは、その1ヶ月後、ハンプシャー州の古城 “ヘッドリィ・グランジ” において、ローリング・ストーンズ所有のモバイル式録音機器を持ち込み開始された。


レッド・ツェッペリン/ Led Zeppelin III

こうして、同年10月に発売された『レッド・ツェッペリンlll/Led Zeppelin lll』は、当時アナログ盤A面がロックン・ロールとブルース・フィーリング。B面はアコースティック・フィーリングと2分され、1st、2ndアルバムを熱狂的に支持したファンにより、全米では予約だけで70万枚を売上はしたものの、蓋を開けてみればレコード会社やファンから不信を招いたのだった。

しかし、そうした周囲の軽視をよそに、彼等は『レッド・ツェッペリンlll/Led Zeppelin lll』での、新たなるアイデンティティに絶対の自信を持ち、同年12月には早々に前作同様 “ヘッドリィ・グランジ” にて次作のレコーディングを開始した。
そう、『lll』での試みは、次作において結実することになるのだ。


レッド・ツェッペリン/レッド・ツェッペリンIV

かくして1971年11月、レッド・ツェッペリン最強の歴史に残る名盤、通称『IV』が発表されたのである。アルバム名もバンド名も表記されていないジャケット・デザインに、前作での不振を案じていたアトランティックは、当然自殺行為とまで嘆く。
しかし、過去のバンド・イメージへの固執、プローモーション対策など、本来音楽と無縁な要因に煩わされることに頑に嫌悪したメンバーは、強行突破。

そうしたアトランティック側との葛藤をよそに、“ロックン・ロール”、“限りなき戦い”、“天国への階段”といった名曲を有した『IV』は、ビルボード2位を獲得し、以後234週に渡ってチャート・インを続け、1970年代最も売れたアルバムとなった。
そして彼らは、ハード・ロック、ブルースなどの枠で括れない、レッド・ツェッペリンというジャンルを確立したのである。(『IV』についての詳細は、過去記事を参照されたい)

勢い、『IV』での成功を乗り逃がしたくないアトランティックは、5作目を翌年秋までに完成させるよう、メンバーに要請。
しかし、『IV』で自分たちの主張を押しとおし、結果アトランティックに多大な利益をもたらしたツェッペリンは、正に巨大な飛行船のごとく、悠々自適な創作活動に専念する。

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ミック・ジャガー所有の別荘地であるスターグローヴスに入り、じっくりと練り上げられ1972年春にレコーディングを開始した『聖なる館/Houses of the Holy』は、1973年3月に発売された。
充分な創作期間の中で、書き下ろされた膨大な曲を厳選し、“The Rain Song”に代表されるジョン・ポール・ジョーンズのキーボード・ワークが、新たなファクターとして加味され、ファンク、レゲエなどのエッセンスをレッド・ツェッペリン・サウンドへと昇華させた同アルバムは、英米1位、ビルボード・トップ40には39週に渡りチャート・インを果たす大成功を収める。


聖なる館

そんな勢いに乗った1973年5月からの全米ツアー初日、アトランタ・ブレーヴス・スタジアムでの観客動員数は、4万9千人とビートルズの記録を大幅に塗り替える。
また、このツアー中に名ライヴ盤『永遠の詩/The Song Remains The Same』のレコーディングも行われている。
正にこの時期のツェッペリンの快進撃は、止まることを知らぬかのような勢いだった。

その後短い休息を経て、11月からヘッドリィ・グランジ入りとなる。
しかし、ツアーで擦り減らしたジョン・ポール・ジョーンズが脱退を表明。
巨漢マネージャーのピーター・グラントの説得で、ことなきを得ている。
新作のために準備されたのは8曲で、これを収めるために二枚組にすることが決定され、足りない分に未発表トラックを復活させる。
それらのミキシング作業や、凝りに凝ったジャケット製作に手間取り、『フィジカル・グラフィティ/Physical Graffiti』は1975年2月に発売された。


フィジカル・グラフィティ/レッド・ツェッペリン[CD]

『IV』、『聖なる館/Houses of the Holy』をさらに進化させた『フィジカル・グラフィティ/Physical Graffiti』は、2枚組にもかかわらず予約だけで100万枚を突破。全米チャート初登場3位。翌週1位。その後6週間に渡りトップに輝いた。
またこのアルバムは、彼等が立ち上げたスワン・ソング・レーベルから発売。
このレーベルは、彼等が敬愛するミュージシャンにも発表の場として提供され、バッド・カンパニーがデビューし、全米1位獲得。多いに同レーベルを盛り上げた。

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かくして1970~1975年、レッド・ツェッペリンは怒濤の疾駆を続け、連戦連勝を誇る武将のごとく時代に君臨する、無敵の巨大な飛行船となったのである……。



♪レッド・ツェッペリン公式サイト



『レッド・ツェッペリンlll/Led Zeppelin lll』動画をチェック!
●Immigrant Song - 1970
●Out on the Tiles
●Gallows Pole

『レッド・ツェッペリンIV/Led Zeppelin IV』動画をチェック!
●Black Dog 1973
●Rock n Roll - Live
●The Battle Of Evermore - plays mandolin
●Stairway To Heaven
●MIsty Mountain Hop
●Four Sticks
●Going To California (Music Video)
●When the Levee Breaks

『聖なる館/Houses of the Holy』動画をチェック!
●The Song Remains The Same
●The Rain Song
●Over The Hills And Far Away Music Video
●Dancing Days
●D'yer mak'er
●No Quarter
●The Ocean

『フィジカル・グラフィティ/Physical Graffiti』動画をチェック!
●Custard Pie
●The Rover
●In My Time of Dying-London-10 December 2007
●trampled underfoot
●Kashmir
●In The Light
● Earl's Court (1975) - "Bron-Yr-Aur Stomp"
●Down by the Seaside
●Jimmy Page & The Black Crowes - Ten Years Gone 10/19/99
●Night Flight
●The Wanton Song
●BLACK COUNTRY WOMAN
●Sick Again





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  1. 2007/12/18(火) 18:00:00|
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レッド・ツェッペリン/年末スペシャル特集!

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先月11月14日、ロバート・プラント、ジミー・ペイジ、ジョン・ポール・ジョーンズの3人が自らトラッキング・リストを選んだ『マザーシップ~レッド・ツェッペリン・ベスト/MOTHERSHIP』発売。


レッド・ツェッペリン/マザーシップ~レッド・ツェッペリン...

11月26日付のオリコン・アルバム・ランキング初登場赤丸8位。
同洋楽アルバム・ランキング初登場赤丸4位。

12月10日付の最新オリコン・アルバム・ランキング11位。
同洋楽アルバム・ランキング3位。

さらに、11月21日には『永遠の詩(狂熱のライヴ)』のリマスター&エクスパンド盤リリース。オリコン・アルバム・ランキング32位。同洋楽アルバム・ランキング12位(ともに12月10日付)。
同ライヴ新装版DVDも同時リリースされた。


永遠の詩(狂熱のライヴ)~最強盤/レッド・ツェッペリン[CD]

ツェッペリン強し!
むろん僕は、全て持っているので買っていませんが、かたや米国を代表するイーグルスの『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン/LONG ROAD OUT OF EDEN』(初登場赤丸7位)のような、派手な世界的プロモーションもない中、これは賞賛に値する現象ではないだろうか。

かといっても、火種がなかったわけでもない。
ツェッペリンの生みの親でもあった、アトランティック・レコードの創立者アーメット・アーティガンが、昨年10月、ストーンズの楽屋で転倒し、頭部を強打。昏睡状態の末ひと月後に亡くなった。

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先月26日、英ロンドンのO2アリーナにて、その功績を讃えた追悼コンサートに、ロバート・プラント(Vo)、ジミー・ペイジ(G)、ジョン・ポール・ジョーンズ(B)の3人に加え、故ジョン・ボーナムの息子ジェイソン・ボーナム(D)が参加した一夜限りのレッド・ツェッペリン再結成実現という報道が流れたのだ。
因に同追悼コンサートには、ピート・タウンゼントビル・ワイマン&リズム・キングスフォリナーパオロ・ヌティーニらも参加予定。

そしてこのライヴを機に、本格的にツェッペリン再結成の噂も流れたようだが、残念ながらそれはロバート・プラントによって一蹴されたようだ。

さらにジミー・ペイジの指の骨折により、上記追悼コンサートも、12月10日まで延期。

予定どおり昨夜、無事追悼コンサートが開催された。
チケット代金は125ポンド(約28000円)で、約2万枚の抽選に100万人以上が応募。お約束の“天国への階段”など約2時間にわたる演奏に、2万人が酔いしれた模様。
うう、行きたかったなあ……。

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まあそんなわけもあり、このブラック・ストライプでも年末特集ということで3週にわたり、改めて僕が最も敬愛するレッド・ツェッペリンを掘り下げ、2007年を締めくくってみたいと思います。



さて、レッド・ツェッペリン結成までの経緯は、ジミー・ペイジの頁を参照していただくとして、ヤード・バーズ解散後、新メンバーによるバンド結成を促したのは、ヤード・バーズの三代目巨漢マネージャーにして、後に5人目のツェッペリンと呼ばれたピーター・グラントだった。

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僕の手元の資料によると、このときジミー・ペイジはピーター・グラントとともに、新バンドの音楽性を、ハード・ロック路線でいくかフォーク・ロック路線にするか、検討に検討を重ねたといわれる。ジミー・ペイジのときにも書いたが、彼はこの時点で既に相当なキャリアを積んでおり、デビューを咽手で欲するような若手特有の青さもなく、むしろこのとき既にプロデューサー的な手腕を発揮していたといえる。

70年代に突入し、ロックが音楽ビジネスの最先端に位置するようになったとき、丼勘定を地でいくロック・ミュージシャンではない、打算とリアリズムを兼ね備えたジミー・ペイジのように建設的なアーティストが時代にマッチしたのだ。

そして最終的に新バンドを、ハード・ロック路線に据えたジミー・ペイジの決断が正しかったことは、その後のレッド・ツェッペリンの成功によって裏付けされた。
彼がハード・ロック路線を選択したのは、ほんの一時ヤード・バーズで一緒だった旧友ジェフ・ベックが、ロッド・スチュアートらと1968年8月発売の『トゥルース』をヒットさせたことが、最大の要因だったとされる。

では企画ありきか、メンバーありきだったのかは、いまとなっては定かでない。
実際、ロバート・プラント、ジョン・ボーナムというハード・ロック然としたメンバーを有したことも事実ではある。総合して全ての条件が、ジミー・ペイジにハード・ロックを選択させたということなのかも知れない。

同時に、ハード・ロック・バンドとしてのツェッペリンは、以後、当初の選択肢の一つだったフォーク的なアコースティック・アレンジを盛り込むことで、独自のキャラクターを生み出すことにもなったのである。
もし、ジミー・ペイジがこのバンドをフォーク路線に据えていたら、かのメンバーもありえなかったし、なによりレッド・ツェッペリンというロックは存在し得なかった。これは重要なポイントである。

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まずスタジオ・ミュージシャン時代から信頼していたマルチ・プレイヤー、ジョン・ポール・ジョーンズをベーシストに迎える。
次にバーミンガムで、バンド・オブ・ジョイなどのローカル・バンドを転々としていた、ヴォーカリストのロバート・プラント。
同じくバンド・オブ・ジョイのメンバーで、後にティム・ローズのバンドで活躍していたジョン・ボーナムをドラマーに迎える。

1968年9月、旧ヤード・バーズの曲“トレイン・ケプト・ア・ローリン”で、このメンバーでの最初のリハーサルを行った。
そしてこの時点で、4人は「イケる!」と実感したという。
その数週間後、9月中旬の北欧ツアーには、ニュー・ヤード・バーズとして活動開始。予想以上にオーディエンスの反響を得たことで、ジミー・ペイジとピーター・グラントは、ヤード・バーズというネーム・バリューに固執する意味を捨て、晴れてここに新星レッド・ツェッペリンが誕生するのである。

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バンド名の由来は諸説あるが、ザ・フーの故キース・ムーン(D)が、酔っぱらって口にしたLead Zeppeline(鉛の飛行船)を、ジミー・ペイジが覚えていて、スペルをLedに変えて拝借したというのが、有力だとされる。

そしてジミー・ペイジとピーター・グラントの知り合いだった、ダスティ・スプリングフィールドの紹介で、米アトランティック・レコードと契約。
ヤード・バーズというバック・ボーンがあるとはいえ、英国の結成間もないバンドにアトランティックが提示した契約金は、破格の20万ドルだった。

1968年11月、ファースト・アルバムのレコーディング開始。
既に充分なステージ活動により、レパートリーが完成していたこともあり、録音は2週間(一説には、わずか30時間少々だった)で完了。
12月には、ヴァニラ・ファッジMC5の前座でアメリカ・ツアー開始。

1969年1月(英国では3月)、1stアルバム『レッド・ツェッペリン/Led Zepplin』発表。
同年3月、英国での1stアルバム発売に合わせ、全英クラブ・サーキット、4月全米ライヴと精力的な活動をこなし、ツアー中ホテルの部屋で曲を作り、セカンド・アルバムのレコーディングを平行した。


レッド・ツェッペリン/レッド・ツェッペリン

そんな状況下での、スタジオも転々としながらの録音に、メンバーは不満だったとされるが、69年5月には1stアルバムが全米10位に上昇。ここぞとばかりにせっつくアトランティックの煽りもあり、1969年10月、2ndアルバム『レッド・ツェッペリンll/Led Zepplin ll』が発表された。


レッド・ツェッペリン 2

その1ヶ月後、2ndアルバム『レッド・ツェッペリンll/Led Zepplin ll』は、全米全英1位獲得。
1970年の英国音楽誌の人気投票では、ビートルズを凌ぎ、1位を獲得。
しかし当初のプレスは、レッド・ツェッペリンに否定的で、有名なローリング・ストーン誌はデビュー後、数年間ツェッペリンを酷評した。

これと同じ現象は、ビートルズのデビューに酷似している。
ビートルズ同様、ツェッペリンもまたファンの指示だけで浮上したのである。
そう考えてみると、ポピュラー・ミュージックを築いたビートルズ。
そして、ハード・ロックを革新的なものと位置づけたレッド・ツェッペリン。
ハード・ロックを再びポピュラーに昇華させたクイーン

ロック史四半世紀を経たいま、1960年代から1970年代にかけ、この3つのバンドが現在のロック・シーンの礎になったといっても過言ではない。

そしてジミー・ペイジの“ロック路線”選択。
それを世界的なパフォーマーになるべくバック・アップしたアトランティック・レコード……。
世話になったアトランティック創立者アーメット・アーティガンのために、一夜限りとはいえ、ひと肌脱ごうと決断したツェッペリンの熱さに、僕は感嘆する。

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ロバート・プラントの近影を見ると、かなり絶望感に囚われるが、願わくば本格的に再結成を。と、期待して止まないのは僕だけではないだろう……。



♪レッド・ツェッペリン公式サイト



1stアルバム『Led Zepplin』各曲順の動画をチェック!
●Good Times Bad Times
●Baby I'm Gonna Leave You
●Dazed and Confused[performed live]
●your time is gonna come
●Jimmy Page White Summer/BlackMountainside
●Communication Breakdown
●I Can't Quit You Baby
●How Many More Times

2ndアルバム『Led Zepplin ll』各曲順の動画をチェック!
●Whole lotta love
●What Is and What Should Never Be
●Thank you
●Heartbreaker
●living loving maid
●RAMBLE ON
●Moby Dick
●Led Zeppelin Live with Aerosmith (Bring it on Home)





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  1. 2007/12/11(火) 16:25:17|
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エアロスミス終章/大人になれないオヤジのロック74。

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1989年、通算10作目となる『パンプ/Pump』は、前作『パーマネント・ヴァケーション/Permanent Vacation』での復活を、より完全なものとするべく、前作と全く同じ布陣で製作された。
にもかかわらず、前作の華美な部分(コマーシャル路線)は、ジョー&ブラッドのよりハードさを増したギター・サウンドに還元され、売れ線に固執しないというエアロスミスの気骨に満ちている。


パンプ / エアロスミス

・シングル“Love In An Elevator”全米5位。
・シングル“Janie's Got a Gun”全米4位(グラミー賞)。
・シングル“What It Takes”全米9位。
・シングル“The Other Side”全米22位。

アルバムも全米5位、全英3位を獲得し、前作を凌ぐヒットとなった。
1990年代、エアロスミスは第二の黄金時代を疾駆する。

1991年、ゲフィンとの契約を維持しながら、古巣であるコロンビア(ソニー)に復帰し、82年までの音源を収録した3枚組ボックス・セット『パンドラの箱/Pandora's Box』発表。


エアロスミス/パンドラの箱

1993年、ゲフィンから『ゲット・ア・グリップ/Get A Grip』発表。
オルタナ、グランジ・ブームをものともせず、初のビルボード・アルバム・チャート1位を獲得した。
レニー・クラヴィッツとの共作“Line Up”、ドン・ヘンリーがコーラスで参加した“Amazing”、ガールズ・ブルックスがカヴァーした“Fever”、ダム・ヤンキースナイト・レンジャーのジャック・ブレイズとテッド・ニュージェントのプロジェクト)が関わった“Shut Up And Dance”などなど、話題性も充分であった。


ゲット・ア・グリップ / エアロスミス

そして、なんと20ケ月に及ぶワールド・ツアーで、エアロスミスは実力・キャリアともに第二のストーンズ級のビッグ・バンドとなったのである。

aerosmith_02.jpg
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1997年、コロンビア(ソニー)復帰第一弾のオリジナル・アルバム『ナイン・ライヴズ』は、アナログ・レコーディングに立返り、アレンジャーにベテランのデヴィッド・キャンベル(ベックの実父)を迎え、R&B、ロックンロールの枠を超えた意欲的な作品に仕上がった。


エアロスミス/ナイン・ライヴス

2001年『ジャスト・プッシュ・プレイ/Just Push Play』では、ジャケットのイラストに、日本を代表するスーパー・リアリズム・ロボット・イラストレーターの空山基を起用。
さらに記憶に新しいハリウッド映画『アルマゲドン』に提供し、世界ヒットした“ミス・ア・シング/I Don't Want To Miss A Thing”が日本盤のみ収録された。そして、前作同様デヴィッド・キャンベルのアレンジが冴え渡り、バンドが築いてきたアナログなロックを、あえてデジタル処理することで、自らの基本理念を再認識するかの如きゆとりさえ秘めている。


JUST PUSH PLAY / エアロスミス

2004年『ホンキン・オン・ボーボゥ/Honkin' On Bobo』発表。
ジャケット写真のブルース・ハープが象徴するこのアルバムは、濃密なブルース/R&Bの有名曲をエアロスミス特有なストレート・アレンジにより、あたかも彼等のオリジナル・ナンバーかと見紛うような、彼等のキャリアだからこそ成せた好盤である。
そして、チャック・ベリーの相棒ピアニストにして、あの“ジョニー・B.グッド”の作曲者ジョニー・ジョンソンがゲスト参加。
エアロスミスの“ロック原点回帰”礼参の重要なアルバムである。


 エアロスミス/ホンキン・オン・ボーボゥ

そして2007年。
このシリーズ冒頭でも触れたが、新作レコーディングのニュースが飛び込んできた。
そのニュースが確かであれば、バンドは11月1日からスタジオに入っていることになる。
10月中旬時点で、ジョー曰く、
「プロデューサーが誰になるのかは、まだわからない。スタジオも未定。わかっているのは、俺たちはスタジオへ入るのを楽しみにしているってことだけだ!」

aerosmith_03.jpg
携帯用画像はこちら


栄光・挫折・復活の酸いも甘いも知り尽くした、巨大バンド。
エアロスミスから、僕らは、まだまだ眼を離せられないようだ……。


♪エアロスミス公式サイト


ではアルバム順に、動画でエアロスミスを辿ってみましょう♪

●Love In An Elevator (full)
●Janie's Got a Gun
●WHAT IT TAKES 1990
●The other side

●Get A Grip (Live - Holland 1994)
●Shut up and Dance
●Amazing
●Crazy Live in Santiago Chile 1994

●Nine Lives
●Hole In My Soul
●Taste Of India (Live)
●Aint That A Bitch

●just push play
●Jaded
●Fly away from here
●Sunshine

●Roadrunner (Japan 2004)
●Baby please don't go
●Never Loved A Girl live
●Back Back Train - Live in Atlantic City
●Stop Messin Around camden 2002





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  1. 2007/12/04(火) 16:18:17|
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