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エアロスミス2/大人になれないオヤジのロック73。

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1979年発表の『ナイト・イン・ザ・ラッツ/Night In The Ruts』で、結成以来破竹の勢いでスターダムに君臨したエアロスミスに最初の転機、いや危機が忍び寄る。


エアロスミス/ナイト・イン・ザ・ラッツ(紙ジャケット仕様)

ツアーに継ぐツアー、その間隙をぬってのレコーディング……。
これは僕らが想像する以上に過酷であり、重度のプレッシャーとの戦いである。
それはいままでロック史に名を刻んできたバンド、アーティストにして例外はない。
ビートルズストーンズツェッペリンしかり、エアロスミスとて体力と神経を擦り減らし、ドラッグ・アルコール乱用へと走るようになる。
冷静に考えればあり得ないことだが、常にトップを走り続けなければならないという妄想から、焦りと葛藤が生じ、メンバー間にコミュニケーションが不足する。

そんな中で、『ナイト・イン・ザ・ラッツ/Night In The Ruts』のレコーディングは行われた。マンネリからの脱却に喘ぐ彼らが、新たにフォリナーを成功させたプロデューサー、ゲイリー・ライオンズを起用したことも、納得できるというもの。
だが結局、レコーディング途中でジョー・ペリーが脱退。
かろうじて『ナイト・イン・ザ・ラッツ/Night In The Ruts』は、全米14位プラチナ・ディスク獲得。
ジョーに続き、1980年にはサイド・ギターのブラッドも脱退。
スティーヴン・タイラーはバイク事故に伴い長期療養を強いられる。
脱退したジョーは、ジョー・ペリー・プロジェクト結成により、結局ジョー自らがエアロスミスの終焉を宣言した恰好になったのである。

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正に、1980年から吹き荒れる『NWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)ブーム』の幕開けをジューダス・プリーストと共に牽引したエアロスミスは、自ら泥沼の低迷期に迷い込んでしまうのである。

僕はジョーの1981年『I've Got The Rock 'n' Rolls Again』、1983年『Once A rocker,Always A Rocker』の2作を当時よく聴いた。それなりの佳作は揃っているものの、むろんそれはエアロスミスではない。
なによりも“NWOBHM”の申し子アイアン・メイデン、米国ではヴァン・ヘイレンといった若手が大道する中、古くさい印象は拭えなかった。


ジョー・ペリー・プロジェクト/忘れじのロックン・ロール(完全生産限定)(CD)


ジョー・ペリー・プロジェクト/いつまでも熱く

1982年『美獣乱舞/Rock In A Hard Place』は、ジョーとブラッドを欠いたエアロスミスが再び初期の黄金期を支えたプロデューサー、ジャック・ダグラスとジョン・ボン・ジョヴィの伯父トニー・ボン・ジョヴィを迎え、150万ドルをかけて製作。
全米32位、かろうじてゴールド・ディスクは獲得したものの、迷走していることは否めない内容だった。


エアロスミス/美獣乱舞(紙)

1984年2月、ボストンで開催された浮沈のエアロスミス公演に、やはり業を煮やしていたジョーとブラッドが現れ、4月に正式に復帰発表。

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1985年、晴れてオリジナル・メンバーでの新作が、ゲフィン・レコードから発表された。しかしベテラン・プロデューサー、テッド・テンプルマンを起用したこの『ダン・ウィズ・ミラーズ/Done With Mirrors』は、モトリー・クルーガンズ&ローゼスらのLAメタルやスラッシュ系のメタル勢全盛の中では当然生彩を欠く。


【送料無料選択可!】ダン・ウィズ・ミラーズ [初回生産限定盤] / エアロスミス

復活は果たしたが、時代は既にエアロスミスを置き去りにして疾走していたのである。が、その時代の先端が、彼等に思わぬ活路を提供することになる。
1986年ラップ、ヒップホップの勇であったランDMCが、“ウォーク・ディス・ウェイ”をラップ・バージョンに仕立てカヴァー、PVにもスティーヴンとジョーを参加させ、思わぬファン層へエアロスミスをリスペクトしたのである!

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このPVはMTVにより全世界に流れ、人々にエアロスミスの存在を改めて知らしめた。実際いま観てもカッコいいし、何より若手の畑違いのランDMCの要望に、気さくに肯んじた彼らに僕は敬意を表したい。
そして、なによりもランDMCもエアロスミスとのコラボによって、世界的な認知を得た。

全く予期しえなかった展開に乗り、当然メンバーはランDMCとのコラボを実現させたプロデューサー、リック・ルービンを迎え、レコーディングに入る。
が、低迷期に浸ったドラッグ&アルコールの影響が、まだ彼等の障壁となりまとまらないままに終わった。
その失敗に一念発起。厳格な体調管理を強い、1987年弟9作『パーマネント・ヴァケーション/ Permanent Vacation』は発表された。


エアロスミス/パーマネント・ヴァケーション

前年のランDMC効果もさることながら、モトリー・クルーやラットまでもが乗じてエアロスミスをリスペクト。
プロデューサーにブルース・フェアバーンを迎え、ボン・ジョヴィとの共作で有名になったデスモンド・チャイルドらが、ソング・ライティングに参加。
ある意味、レコード会社側もメンバーも“売れる”ことをことさら念頭に置き製作されたコマーシャルな部分は拭い去れないが、既に40代に差しかかった彼等が色あせることなく、むしろ低迷期の70年代末期を凌駕するほどのパワーがみなぎった名作であると、僕は思う。
“デュード(全米14位)”、“エンジェル(全米3位)”、“ラグ・ドール(全米17位)”の必殺のヒットも手伝いアルバムは売れに売れ全米11位獲得。

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僕にとってもこのアルバムが、当時ガンズの『アペタイト・フォー・ディスクトラクション/Appetite For Destruction』と並び、最も聴いたアルバムであることはいうまでもない。



♪エアロスミス公式サイト



ではアルバム順に、動画でエアロスミスを辿ってみましょう♪

●Remember (Walking In The Sand) [Largo 1980]

●Reefer Head Woman (with Jimmy Crespo)

●Cry Me A River

●Let The Music Do The Talking

●hearts done time

●Rag Doll

●Dude (looks like a lady)

●St John

●Hangman Jury (Houston 88)

●Angel

●Permanent Vacation (Houston 88)

●I'm Down (Houston 88)





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  1. 2007/11/27(火) 18:00:00|
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エアロスミス!(序章)/大人になれないオヤジのロック72。

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結成から37年。
近々新譜が録音されるとかされないとか、なにかとお騒がせな、全世界アルバムセールス1億枚を誇る米国の超ビッグ・バンド、エアロスミス。

1970年。
ニューヨークではサイケ、ヒッピー・ムーヴメントもおさまり、T・レックスデヴィッド・ボウイ以降のグラム・ロックにツェッペリン的なハード・ロック要素を加味した新しいロックを、業界全体が渇望していた頃だった。
そんな中、1973年1月にリリースされたデビュー・アルバム『野獣生誕/Aerosmith』をひっさげ、ボルトにネジがはめ込まれるがごとく、シーンに登場したのがエアロスミスだったのである。


エアロスミス/野獣生誕(エアロスミス )(CD)

1969年、ニュー・ハンプシャー州サナビー湖、ザ・バーンというクラブで演奏していた、ヤード・バーズストーンズのコピー・バンドであるザ・ジャム・バンドに在籍したのが、ジョー・ペリー(G)とトム・ハミルトン(B)だった。
そこへ既に地元ではちょいと知られていたドラムス&ヴォーカリストであるスティーヴン・タイラーが新たなバンド結成を持ちかける。

意気投合した3人は、スティーヴンの薦めで彼の友人であり、バークリー音楽院で学んだジョーイ・クレイマー(D)と、レイモンド・タバノをサイド・ギタリストに迎え、本格的に活動を開始。
ほどなくレイモンドは脱退し、ジョーイと同じくバークリー音楽院を卒業し、音楽活動をしていたブラッド・ウィットフォードを迎え、以後不動のメンバーとなったエアロスミスの5人は、ボストンの小さなアパートで共同生活をはじめる。

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バンド名はジョーイの発案で、Aero(空気)とSmith(職人)を合わせた造語を採用。1970年秋、初ライブから様々なパーティ、クラブで演奏活動を展開。
地元の知り合いの好意で映画館の空いてる時間をリハーサル・スタジオとして切磋琢磨している中、もとよりアマチュアとしてのキャリアも豊富だった彼等の噂は広まり、大物プロデューサー、フランク・コネリーの眼に止まる。

1972年、ニューヨークに進出したエアロスミスは、NYパンクの聖地クラブ、マクシズ・カンザス・シティでお披露目ライヴを敢行。
アトランティック、コロンビアのディレクターが招かれた中、後のアリスタ・レコード社長クライヴ・デイヴィスが当時の所属会社コロンビアと契約させる。

こうして発表されたデビュー・アルバム『野獣生誕/Aerosmith』は、当初ストーンズのクローンと揶揄された。クリームラスカルズのエンジニアやヴァニラ・ファッジオールマン・ブラザーズ・バンドのプロデューサーを手掛けたエイドリアン・ハーバーも未だエアロスミスの可能性に気づいていなかったのかも知れない。
しかし地元のラジオ局を中心に“ドリーム・オン”が大ブレイク。全米シングル・チャートで59位まで上昇。アルバム中の“Mama Kin”は、今でもライヴには欠かせない代表曲となっている。

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1974年、1stアルバムの荒削りな面を修正すべく、アリス・クーパールー・リードを手掛け、後にキッスを世に知らしめるボブ・エズリンをエグゼクティヴ・プロデューサーに迎え、エンジニア兼サウンド・プロデューサーとしてエズリンの門下ジャック・ダグラスを配して録音されたのが、2ndアルバム『飛べ!エアロスミス/Get Your Wings』である。
この2人の起用が功を奏し、サウンドに緊張感が増し、緻密なアレンジが施され見事にエアロ・サウンドが開花した。


エアロスミス/飛べ! エアロスミス(CD)

バンドはツアーに謀殺されながらも、本格的にジャック・ダグラスをメイン・プロデューサーに据えて、1975年3rdアルバム『闇夜のヘヴィ・ロック/Toys in the Attic』発表。アルバムは全米11位、プラチナ・ディスク獲得。人気に火がつき、再リリースされた“ドリーム・オン”も全米6位。それに伴い1st、2ndアルバムも追随して売れる現象が起き、世はエアロスミス時代へと突入していくのである。


エアロスミス/闇夜のヘヴィ・ロック(CD)

1976年、4thアルバム『ロックス/Rocks』は、ライヴでのサウンドを再現すべく、マサチューセッツの倉庫でレコーディングされた傑作。思惑どおり彼等のライヴを体験したファンの圧倒的な支持を受け、全米3位となりエアロスミスの初期の代表作となった。


エアロスミス/ロックス

1977年1月の初来日公演を含む、ヨーロッパ~全米ツアー敢行。
その最中、1977年5thアルバム『ドロー・ザ・ライン/Draw The Line』発表。
さらに1978年、ライヴ・アルバム『ライヴ・ブートレッグ/Live Bootleg』発表と、エアロスミスにとって最初の黄金期を迎えた。


ドロー・ザ・ライン / エアロスミス


エアロスミス/ライヴ・ブートレッグ(CD)

僕にとっても、この頃の記憶は確かに艶かしい。
当時、ミュージック・ライフ誌の表紙はしょっちゅうスティーヴン・タイラーだった。実は僕はそのとき未だ彼等の音は未体験だった。
だから、最初にスティーヴン・タイラーのアップの表紙を見たとき、唇が分厚い顔が歪んだミック・ジャガー? ってな印象だった。
当時は、米国産エアロスミスVS.英国産ジューダス・プリーストが何かと騒がれた時代だった記憶がある。

そして、それは1980年から吹き荒れる『NWOBHM(ニュー・ウェイヴ・オブ・ブリティッシュ・ヘヴィ・メタル)ブーム』の幕開けを誘因させる高まりでもあったのだ……。

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♪エアロスミス公式サイト


ではアルバム順に、動画でエアロスミスを辿ってみましょう♪


●SOMEBODY

●Dream On

●One Way Street

●Mama Kin live in Houston 77

●Moving Out

●Same Old Song And Dance

●Lord of the Thighs

●Woman Of The World

●S.O.S. (Too Bad) live in Houston 77

●Train Kept a Rollin'

●Seasons of Wither

●Toys In The Attic

●Uncle Salty

●Walk This Way

●Sweet Emotion

●No More No More (live Hard Rock Hotel)

●You See Me Crying

●Back In The Saddle

●Last Child

●Combination

●Sick As A Dog and Hartbreaker

●Get The Lead Out [Oakland 1984]

●kings and queens

●Milk Cow Blues





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  1. 2007/11/20(火) 18:00:00|
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スティーヴィー・レイ・ヴォーン/大人のギタリスト講座25。

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「スティーヴィー・レイ・ヴォーンこそ、僕が16のときあんな風になりたいって憧れた人なんだ」(エリック・クラプトン談)
「スティーヴィーって、その瞬間に芸術の域に達しちまったブルースを演ってるんだと思う。誰にもあんなトーンは出せやしない」(ジェフ・ベック談)

今回は1960年代のクラプトン以来、最も成功したブルース・ロック・アーティストであり、後進の音楽家に巨大な影響を与え続けているギタリスト、スティーヴィー・レイ・ヴォーンのことを。

1954年、米国テキサス州ダラスに生を受けた。
彼の両親は熱烈な音楽ファンであり、彼と兄ジミーを連れてファッツ・ドミノボブ・ウィリズのショウに出かけたという。
スティーヴィーの伯父2人もギターを弾き、度々彼の家族の前でエレクトリック・ギターを演奏した。

スティーヴィーの最初のギターは、7歳の誕生日に音楽好きな両親に贈られたマソナイトという安物のギターだったとされる。
当初はドラマーに憧れていた彼は、8歳になりギターを弾きはじめる。
スティーヴィーの最初のギターの先生は、兄ジミーだった。

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「実質的に兄のジミーからの影響が、最も大きかった。ジミーがいなかったらギターなんて弾いていなかったね。どんな風になっていくのかいつも彼のプレイを一生懸命に見ていたよ」(スティーヴィー・レイ・ヴォーン談)

件の兄ジミー・ヴォーンは、後にファビュラス・サンダーバーズのギタリストとして、テキサスのクラブ・シーンで活躍した。

スティーヴィーが最初に買ったレコードは、ロニー・マックのシングル盤(45回転)で、“Wham/Suzie-Q”だった。
その他に、彼が聴きこんだレコードとしては、
♪B.B.キング
♪Tボーン・ウォーカー
♪マディ・ウォーターズ
♪ヒューバート・サムリン
♪ハウリン・ウルフ
♪マジック・サム
♪アルバート・コリンズ
♪ギター・スリム
♪ジョニー・ギター・ワトソン
♪ジョン・リー・フッカー
♪ライトニン・ホプキンス
♪ジミー・リード
♪エルモア・ジェイムス
といったブルースマンたちだった。

しかしヤード・バーズ、エリック・クラプトン、ジェフ・ベックなど、後年彼の音楽性を広げることになるロック・アーティストたちも熱心に聴いていた。

13歳の頃には、クラブで演奏するようになり、早い時期からプロとして活動。
そこで数々の憧れのブルースマンに出逢う。

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1968年、ジョニー・ウィンターとのセッションで、ベースのトミー・シャノンと知り合い、ブラック・バードを結成。

1972年、テキサス州オースティンへ移住。

1973年、ポール・レイ&ザ・コブラズを結成し、『Texas Cover』発表。

1977年、ヴォーカルのルー・アン・バートンとトリプル・スレッド・レヴュー結成。

1978年、ダブル・トラブル結成。

1982年、プロデューサーのジェリー・ウェクスラーの後押しで、モントレー・ジャズ・フェスティバルに参加。ここでデヴィッド・ボウイのバックを務めた。

1983年、デヴィッド・ボウイのアルバム『Let's Dance』にゲスト参加。

長いクラブでの無名時代から、一躍シーンに躍り出て自らもソロ・デビュー・アルバム『ブルースの洪水/Texas Flood』を発表。後にゴールド・ディスクに輝くのである。


テキサス・フラッド~ブルースの洪水

「店では弾いてもみなかったのに、一目見てそれが自分の手に馴染む初めてのギターだってことがわかったんだ」それが、彼のトレード・マークとなる1959年製のローズ・ウッドのフィンガー・ボードのフェンダー・ストラトキャスターだった。この“ナンバーワン”と称した愛機は、当時それまで愛用していたストラトの修理依頼で楽器店に訪れた際、壁にかけてあったもので、正に一目惚れしたものである。

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先述したように、ブルース・ギタリストたちから深く影響を受けた彼のギター・スタイルは、12小節のスリー・コードにメジャー/マイナー・ペンタトニック、ブルース・スケールであるが、なんといってもジミヘンからの影響を忘れてはならない。

「兄貴(ジミー)がヘンドリックスのレコードを買ってきたとき、なんだこりゃ? すげえ!ってのけぞったのが忘れられないよ」(スティーヴィー・レイ・ヴォーン談)

実際59年製ストラトに、左利き用のトレモロ・アームとギブソンの大きなフレッドに打ち変え、改良を加えた。
そしてジミヘンから感化されたコード、メロディ、スロー・テンポのバラードではパラレル・コード・モーションを駆使。
好んで使うコードは、メジャー/マイナー、7thが中心で、ときに6th、9th、13thが加わる。
使用弦はダダリオ「.013 .015 .019 .028 .038 .058」のヘヴィ・ゲージで、ピックもダダリオのデルリン製.043へヴィ。

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1980年代初頭の使用アンプは、1963年製フェンダー・ヴァイブロヴァーブ1×15コンボを2台。
1980年代後期には、1960年代中頃のフェンダー・スーパー・リヴァーブ4×10コンボを2台。
むろん彼の分厚いパワフル・トーンにはマーシャルも不可欠だった。
マーシャル・クラブ・アンド・カントリー2×12コンボが代表的で、100WJCM-800と200Wマーシャル・メジャー・スーパーPAヘッドに4×15、8×10キャビネットをつないでいた。

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エフェクト類はシンプルで、アイバニーズのチューブ・スクリーマーをソロのギター信号のブースターとして使用し、他にはファズ・フェイズ、オクタヴィア、ヴォックスのワウワウ・ペダルを使用。
スタジオ・ワークには、ワウワウを2つにユニヴァイブ、フェンダー・ヴィブラトーン・ユニットが使われた。

「自分の最高のトーンを見つけ出そうとするんだけれど、そんなこととんでもないって夜が続くこともあるし、簡単なことじゃないよ。でも、それが目標にあるからプレイし続けるんだもんね」(スティーヴィー・レイ・ヴォーン談)

1984年、2ndアルバム『テキサス・ハリケーン/Couldn't Stand The Weather』発表。ビデオ・クリップがMTVで好評を博す。アルバムはゴールド・デスク獲得。
グラミー賞のチャック・ベリーに捧げられた席でジョージ・サラグッドと共演。


テキサス・ハリケーン


1985年、1月発来日。3rdアルバム『Soul to Soul』発表。ゴールド・ディスク獲得。Blues Explosionへの貢献から、グラミー賞受賞。
子供の頃、最初に買ったアイドル、ロニー・マックのアルバム『Strikes Like Lightning』を共同プロデュース。


ソウル・トゥ・ソウル

1986年、ジェームス・ブラウンの“リヴィング・イン・アメリカ”の演奏で脚光をあびるが、長年の荒れた生活と酒・ドラッグの乱用で入院。

1989年、復帰。4thアルバム『In Step』発表。
同年、ジェフ・ベックとのダブル・ヘッドライナーで、全米ツアー敢行。
ベック以上の反響を得て、ドラッグ・アル中治療による3年のブランクを吹き飛ばす勢いだった。


イン・ステップ

1990年8月26日、運命の日が訪れる。
ウィスコンシン州イースト・トロイでのウルース・フェスティバルに参加。
エリック・クラプトン、バディ・ガイロバート・クレイ、兄ジミー・ヴォーンらと共演。

終了後、シカゴへ向かうためヘリコプターに搭乗。
しかし、このヘリは本来彼が乗る予定ではなかったが、空席が出たため急遽搭乗した。
濃霧の中、ヘリは8月27日未明にアルパイン・ヴァレイ・リゾートの電線に接触して墜落。
急遽空いた一席を選んだ、スティーヴィー・レイ・ヴォーンは帰らぬ人となった。
享年36歳であった。

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♪スティーヴィー・レイ・ヴォーン公式サイト。


●Stevie Ray Vaughan- Texas Flood

●Stevie Ray Vaughan - Mary had a Little Lamb

●Stevie Ray Vaughan - Voodoo Chile

●Stevie Ray Vaughan - Tell Me

●Stevie Ray Vaughan & Albert King - Pride and Joy - Live 1983

●Stevie Ray Vaughan - So Excited

●Stevie Ray Vaughan :Texas Flood 1983

●STEVIE RAY VAUGHAN - COULDN'T STAND THE WEATHER

●Stevie Ray Vaughan - Love Struck Baby (Rockpalast 1984)

●Stevie Ray Vaughan - Scuttle Buttin' (Rockpalast 1984)

●Stevie Ray Vaughan - Cold Shot (Rockpalast 1984)

●Stevie Ray Vaughan - Testify (Rockpalast 1984)

●Stevie Ray Vaughan - Say What!

●Stevie Ray Vaughan - Lookin' Out the Window

●STEVIE RAY VAUGHAN - CHANGE IT

●STEVIE RAY VAUGHAN - CROSSFIRE

●SRV - Wall of Dénial

●Stevie Ray Vaughan / Riviera Paradise

●Stevie Ray Vaughan - Life Without You





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  1. 2007/11/13(火) 19:41:20|
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T.REX/マーク・ボラン(煌めきへのレクイエム3)

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さて、このブログの宿題バンドの一つ、T.REXです。
1970年代を通過した者で、T.REX、マーク・ボランを知らない奴はモグリです。
そのぐらい、流行りました。

1947年9月30日、ロンドンのハックニーに生を受けたマーク・ボラン(本名マーク・フェルド)は、1957年9歳の夏に友人と当時ブームのスキッフル・バンドを結成する。
バンド名はスージー&ザ・フラフープス。
同バンドには、後の60年代初めにソロ・シンガーとして大成功したヘレン・シャピロ、60年代半ばにデュオ、トゥルースとして活躍したスーザン・シンガーとスティーヴン・グールドなどが在籍していた。

やがてスキッフル・ブームの終焉とともに、英国にもロックン・ロール・ブームが起こると、マーク・フェルドことボランはエルヴィス・プレスリーを経てクリフ・リチャードに刺激を受けた。

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1950年代末から1960年代初頭の弟一次モッズ・ブームでマーク・フェルドは、既にロー・ティーンのモッズとしてロンドンで知れ渡り、イヴニング・スタンダード、タウンといった新聞・雑誌で紹介され、子供向けTV番組『ファイヴ・オクロック・クラブ』に出演するようになっていたそうだ。

1964年末、ディズニー映画『Toby Tyler』という孤児の物語をヒントに、トビー・タイラーという芸名で、デモ録音。

1965年1月、マキシム・サウンド・スタジオで2度目のデモ録音。
曲はディオンのカヴァー“Gloria(The Road I'm On)”とボブ・ディランの“風に吹かれて(Blowin' In The Wind)”だった。

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その直後、EMIアビイ・ロード・スタジオでもスウィンギング・ブルージーンズの“You're No Good”を録音し、オーディションで文字通り“キミは良くない”と不合格となったとされる。

その後、キャット・スティーヴンスとのデュオを経て、デッカ・レコードのオーディションで米国スタッフ・プロデューサーのジム・エコノマイデスの眼に止まり、ソロ契約に漕ぎ着ける。
そこで、トビー・タイラーという芸名がディズニーとの版権問題からか問題となり、ジム・エコノマイデスがマーク・ボウウンド(Bowland)という芸名を提案。
これを本人がアレンジしてマーク・ボラン(Bolan)として、1965年11月シングル“The Wizard”でデビュー。続いて1966年2月シングル“The Third Degree”を発表するが、両方とも失敗。デッカとの契約が打ち切られる。

2作の失敗を、マネージャー不在が原因と位置づけたボランは、ヤード・バーズの敏腕マネージャーだったサイモン・ネピア=ベルに白羽の矢を立て、いきなり電話で「僕はシンガーのマーク・ボランだけど、今までにないブリティッシュ・ロック・スターになるよ」と売り込む。
ところが、まずはデモを送ってくれと対応したネピア=ベルの自宅に、その10分後に押し掛けて、テープ・レコーダーがないのでここで歌うよと告げ、居間で50分ほど演奏。
しかしこのボランの演奏に衝撃を受けたネピア=ベルは、そのままキングスウェイのデン・リー・スタジオにボランを連れて行き、夜8時から再び居間での演奏を繰り返させ、録音させる。これが後の『ビギニング・オブ・ダブズ』である。

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ネピア=ベルによって、ヤード・バーズと同じEMIと契約し、パーロフォン・レーベルから1966年11月にシングル“Hippy Gumbo”をリリース。
しかし、またも不発に終わる。

ネピア=ベルは、同じくマーネージメントしていたバンド、ジョンズ・チルドレンのギタリスト脱退にともない泣かず飛ばずのボランを起用。
だが、バンドでのポジションに不満を抱きシングル3枚に参加しただけで半年も経たずに脱退。ボランはメロディ・メイカー誌にメンバー募集広告を出す。

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集まったメンバーで、6人組のサイケデリック・バンドを結成。
トラック・レコードのサポートで、ギグを開くもメンバーの未熟さからギグは大失敗。
トラック・レコードから機材を没収されてしまったボランは同じメンバー募集に応募してきたスティーヴン・ペリグリン・トゥックをパーカッショニストとして、アンプラグド・スタイルのデュオ、ティラノザウルス・レックス結成。

ティラノザウルス・レックスは英国古謡、ブルース、ロック、中近東音楽、インド音楽などを融合した音楽で、ビートルズのアップル他5社から引き合いがあった。しかし、そのどれもに不満を持ったボランは当時リーガル・ゾノフォン・レーベルのデニー・コーデルの下で働いていた新進気鋭の米国人プロデューサー、トニー・ヴィスコンティに接触。
ヴィスコンティは、ティラノザウルス・レックスをリーガル・ゾノフォン・レーベルと契約させ、以後6年に渡り強力なパートナーとなるのである。

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ロンドンのUFOクラブで、ティラノザウルス・レックスを初めて観たヴィスコンティは、
「とてもユニークで、同時にあまりに斬新過ぎて不思議な気持ちになった。マーク・ボランは英語で歌んの?って思った。床に座った2人と、300人ほどのオーディエンスもあぐらをかいて座っていて、宗教の儀式みたいだった」
と、印象を語っている。

ティラノザウルス・レックスは、1968年4月、“デボラ”(英国34位)でデビュー。
以後2年間に3枚のシングルを発表。
1969年7月のシングル“キング・オブ・ランブリング・スパイアス”では発のエレクトリック・ギターを使用。
1970年初頭には、ヴィスコンティが手掛けたデヴィッド・ボウイのシングル“プリティエスト・スターズ”にボランがギターで参加。

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紆余曲折の果て1970年10月、ボランとヴィスコンティはフライへ移籍。
そこでバンド名をT.REXと短縮、同時にパーカッションにミッキー・フィンが参加した。
サウンドはエレクトリックなブギ・スタイルと変化し、同年12月T.REXとしての1stアルバム『T.REX』発表。
この頃、スティーヴ・カーリー(B)、ビル・リジェンド(D)が加入。


T.REX/T.レックス+9(初回生産限定盤)※再発売(CD)

1971年9月2ndアルバム『電気の武者/Electric Warrior』発表。
ボランとヴィスコンティは、このアルバムでブギ・スタイルのギター・リフ、不自然なコード進行、ユニゾンによるストリングス・アレンジ、元タートルズのフロ&エディによるファルセット・コーラスで構成した“ボラン・ブギ”を確立する。
ステージでも、ソリッド・ボディのエレクトリック・ギターを抱え、金ラメのスーツを着用し、それまでの“魔術師”から“電気の武者”へと変貌。
アルバムからのシングル“Get It On”が、4週連続英国1位、全米トップ10ヒットを記録。一気に世界的な“T・レクスタシー”ブームを巻き起こす。
おりしも、友人のデヴィッド・ボウイも『ジギー・スターダスト』がブレイクし、T.REXはグラム・ロック・ブームの真っ只中に君臨することとなる。


T.レックス/電気の武者+8 30THアニヴァーサリー・エディション(CD)

1972年7月、3rdアルバム『The Slider』発表。(英国4位)
前作での画期的なT.REXサウンドにさらに磨きがかかり、シングル“メタル・グルー”、“テレグラム・サム”、“チルドレン・オブ・ザ・リヴォリューション”(アルバム未収録)、“イージー・アクション”(アルバム未収録)が世界的に大ヒットした。
蛇足だが、話題を呼んだジャケット写真はリンゴ・スター撮影との伝説となっていたが、トニー・ヴィスコンティ撮影というのが真相であった。


T.REX/ザ・スライダー(CD)

また、この頃自らのレーベル『T.レックス・ワックス・カンパニー』設立。
ザ・ムーヴ、ELOのマネージャー、トニー・セカンダをビジネス・マネージャーに迎え、EMIとの配給契約を果たす。

1973年3月、『Tanx』発表。(英国4位)
シングルでは、“20センチュリー・ボーイ”(アルバム未収録)、“ザ・グルーヴァー”(アルバム未収録)、“トラック・オン”(アルバム未収録)
僕が知っているT.REXもここまで。
T.REXは名実共にピークを迎えていた。


[枚数限定][限定盤]タンクス/T.レックス[CD]

また同年、バンド編成に3人の女性コーラスを組み入れ、そのうちの1人グロリア・ジョーンズという黒人女性の影響もあり、ソウル、アメリカン・ポップスのサウンド要素が加味される。

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1970年代後半のパンク・ブームの煽りからか、一時の熱狂的な“T・レクスタシー”ブームも終焉を迎える。
ドラッグ浸けの日々、完全に自身をコントロールできなくなったボランは、全盛時のグラム・ロックの旗手からは見る影もなく肥満。

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しかし、妻となっていたグロリア・ジョーンズとの息子の誕生もあり、生活を一新した彼は、1977年、ジャムブームタウン・ラッツジェネレーションXといった新世代バンドをゲストに向かえるTV番組『MARC』のホスト役を務め、パンク世代とのパイプとなり名声を維持していた。

そして、その年の9月16日、グロリアと明け方まで飲み歩き、帰宅途中グロリアが運転するミニGTが、バーンズ・コモンの街路樹に激突。
早朝5時、グロリアは重傷。
マーク・ボランは帰らぬ人となった。
30歳の誕生日を迎える2週間前の出来事であった。

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生前、マーク・ボランは「僕は30歳まで、生きられないだろう」と公言していたそうだ。

今回T.REX/マーク・ボランの来歴を辿ってみて、改めて思うことがある。
子供の頃から異才を放ち、周囲の利権目的の大人達に踊らされ、黒魔術に傾倒し、ネガティヴとポジティヴの狭間でもがき前進した彼の短い人生は、絵に描いたようなロック・スターの悲劇である……。


よかったら、過去記事(煌めきへのレクイエム)もどうぞ。
ジミ・ヘンドリックス。(煌めきへのレクイエム1)
フィル・ライノット/シン・リジィ。(煌めきへのレクイエム2)



それでは、アルバム順で動画をどうぞ♪
●T.Rex-Ride A White Swan

●T.REX MAMBO SUN

●Marc Bolan & T.Rex - Cosmic Dancer (live)

●Marc Bolan - Jeepster

●MONOLITH

●T.Rex - Get It On (UK '71)

●T.Rex - Girl (live)

●T.Rex - The Motivator

●T.Rex - Life's a Gas

●T.Rex - Metal Guru

●Marc Bolan & T.Rex - Rock On '07

●T.Rex - The Slider

●T Rex - Spaceball Ricochet

●Buick MacKane

●T.Rex - Telegram Sam (UK '72)

●T.Rex - Baby Strange (live)

●T.Rex - Main Man

●T.REX "The Groover"

●T.rex- 20 century boy





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  1. 2007/11/06(火) 19:26:57|
  2. 大人のロック。
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【追記】イーグルス、28年ぶりの新譜、発売中!

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イーグルス、28年ぶりのオリジナル・メンバーによる新譜『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン/LONG ROAD OUT OF EDEN』が、いよいよ明日31日発売となりました。

現メンバーは、

・グレン・フライ(G)/Glenn Frey
・ジョー・ウォルシュ(G)/Joe Walsh
・ティモシー・B・シュミット(B)/Timothy B. Schmit
・ドン・ヘンリー(D)/Don Henley


う~ん、ここに全盛時の立役者ドン・フェルダー(G)が不在なのが残念といえば残念。
現在ここで全曲試聴できますが、なんとなくドン・フェルダー不在が納得できるサウンドであるような気がする……。

しかし、28年ぶりとなる新譜はやはりありがたい。
いうまでもなく、レコード会社における新譜のターゲットは僕や団塊の世代、詰まり1976年に1千万枚を売り上げたアルバム『ホテル・カリフォルニア』をリアルタイムで通過した45歳以上だそうで、世界的なプロモーションが展開中である。

“ホテル・カリフォルニア”は聴いたことがあっても、いまやイーグルスを知らない世代は多いはず。
ってことで、新譜発売を前日に控え、来歴・音楽性を辿ってみましょう。

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1948年生まれのグレン・フライは、ミシガン州でトロイトに生まれ、ボブ・シーガーらと腕を磨き、ボ・ディドリーのツアー・サポートを経て1968年にLAに移り住む。
LAで知り合ったJ.D.サウザーとロング・ブランチ/ペニー・ウィッスルというフォーク・デュオを結成し、1969年にエイモス・レコードからデビューするも、全くの不発に終わる。

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一方、1947年テキサス州ギルマーで生まれたドン・ヘンリーは、1963年に後に有名プロデューサーとなるジム・エド・ノーマンらとフォー・スピーズを結成。
これがフェリシティ、シャイローというバンドに発展するが、ドン・ヘンリーが参画したシャイローはLAを拠点に活動。メンバーのアル・パーキンスだけがケニー・ロジャースのプロデュースで唯一1枚のアルバムを発売するに至る。やはり弱小レーベルの売れないミュージシャン生活に喘いでいた残りのメンバーはグレン・フライと交流することとなる。

そんな彼等にも朗報が届いた。
1971年、西海岸の新しい歌姫リンダ・ロンシュタットのバック・バンドに、LAのクラブ“トルバドール”に出入りしていたミュージシャン達が起用されたのである。
リンダのプロデューサーであるジョン・ボイランが真っ先に声をかけたのが、貧困に喘いでいたグレン・フライであり、むろんシャイローの残党としてドン・ヘンリーの姿もそこにあった。

だが先述のシャイローのヘンリー以外のメンバーが、リンダのバンドに定着せず、頭を痛めたバイロンは、若手ながらキャリアのあるバーニー・リードンとランディ・マイズナーを起用した。
リードンはLAカントリー・ロックのメインストリームを歩み、リンダのバック・バンド、コーヴェッツに一度参加した縁で再びリンダのバックに起用された。

一方マイズナーは、プアーの一員としてコロラドからLAに進出。バッファロー・スプリングフィールド解散後のリッチー・フューレイジム・メッシーナと知り合い、ポコの立ち上げに参加するも、デビュー・アルバム録音中に飛び出し、リック・ネルソンのストーン・キャニオン・バンドに加入していた。

このときジョン・ボイランは、カントリー・ロックのスーパー・バンドを結成し、リンダのバック・バンドにつける構想をもっており、リードンとマイズナーもそのための起用だったそうだ。
ところがリンダのレコーディング、ステージ・サポートにおいて、フライとヘンリーはこの編成に高い可能性を見いだし、新しいバンド結成を主張する。
リンダとボイランもこれを温かく受け入れ、1971年8月独立。

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・グレン・フライ(G)/Glenn Frey
・バーニー・リードン(G)/Bernie Leadon
・ランディ・マイズナー(B)/Randy Meisner
・ドン・ヘンリー(D)/Don Henley


バンド名はリードンの発案でインディアンの神話から“イーグルス”と命名。

グレン・フライとアパートをシェアしていたジャクソン・ブラウンの手引きで新興アライサム・レコードと契約。
アライサムの社長デヴィッド・ゲフィン自らがマネージメントを手がけ、メンバーはコロラド州に送り込まれ、ギャラリー・クラブで一晩4回のステージを一ヶ月以上こなし腕を磨く。
そして1972年、デビュー・アルバム『イーグルス・ファースト/Eagles』がロンドンで録音された。


イーグルス/イーグルス・ファースト

『イーグルス・ファースト/Eagles』は、ストーンズツェッペリンフーのプロデュースを手がけた大物、グリン・ジョンズを起用。だがばりばりの英国ロックを手がけたグリンはイーグルスのサウンドをあくまでカントリー・バラードの枠内で捉え、「君達にロックはできない」とまでいい、ロック指向だったメンバーとの衝突が絶えなかったともいわれる。

それでも彼等の個性を、英国的センスでサウンド・メイクしたグリン・ジョンズのせいか結果的に“テイク・イット・イージー”(全米12位)、“魔女のささやき(Witchy Woman)”(全米9位)、“ピースフル・イージー・フィーリング”(全米22位)と大ヒット、アルバムも全米22位の大成功を収める。

この成功に気を良くしたか、続くセカンド・アルバム1973年『ならず者/Desperado』も同じ布陣にてロンドンで録音。
前作同様にこのアルバムも、リードンによるカントリー・ロック色の濃いアプローチであるが、西武開拓時代のアウトローをテーマにしたコンセプト・アルバム作りが、ソング・ライターであるフライとヘンリーに強いイニシアティブを与えることとなる。


イーグルス/ならず者(紙ジャケット仕様)(CD)

当時のイーグルスは、ジェスロ・タルジョー・コッカーイエスといった英国系ミュージシャンの前座を努めており、ツエッペリンやパープルといった英国ロック全盛時、いまにして思えばデヴィッド・ゲフィンのプロモーションは的を射ていたのかも知れない。
僕も忘れもしない、高一のとき。
ツエッペリン、パープルに明け暮れていた中、『イーグルス・ファースト/Eagles』は実に鮮烈であったし、それを機に米国西海岸に眼を向けるようになったのも確かだ。

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1974年『オン・ザ・ボーダー/On The Border』で、早くもイーグルスに変革が訪れる。
3度目のグリン・ジョンズとのセッションはわずか2曲で破綻。メンバーはLAに戻ってしまう。そこでゲフィン配下の新しいマネージャー、アーヴィング・エイゾフの元、同マネージャーの下にいたジョー・ウォルッシュの勧めでビル・ジムジクを後任プロデューサーに迎える。
メンバーと同世代のジムジクは、彼等の意向をくみロック色を押し出し、リードンの紹介で参加したドン・フェルダーがアルバム完成に立ち会った。
5人になったこのアルバムで、“我が愛の至上/The Best Of My Love”が全米1位となり、初めて全米チャートを制覇。


イーグルス/オン・ザ・ボーダー

貧困に喘いでいた頃、フライとヘンリーが構想した新しいロック・バンドとしてのコンセプトが結実した彼等は、1975年『呪われた夜/One Of These Nights』でアルバム全米1位を獲得。
ここで当然の経緯として、ロック色に異を唱えていたバーニー・リードンが脱退。
だがここに、これまた当然の経緯としてジョー・ウォルッシュが参加し、ハード・サウンドを加味したイーグルスはさらなる高みを目指すこととなる。

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呪われた夜 / イーグルス

そう、それこそが1976年『ホテル・カリフォルニア/Hotel California』である。
アルバムはまたしても全米1位。
シングル、“ニュー・キッド・イン・タウン”(全米1位)。
“ホテル・カリフォルニア”(全米1位)。
“駆け足の人生”(全米11位)を獲得。
イーグルスは、名実共に世界のビッグ・バンドとなったのである。
とにかく、下記リンクの“ホテル・カリフォルニア”ライブ演奏を観てほしい。
これぞ全盛時の巨大バンドの勢いである。
フェルダーとウォルッシュのツイン・リードは何度観ても、感涙ものです!


イーグルス/ホテル・カリフォルニア(紙ジャケット仕様)(CD)

だがツアーに謀殺されたメンバー中、ランディ・マイズナーは嫌気がさして脱退。後任はポコでマイズナーの後釜だったティモシー・B・シュミットが起用される。

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1979年9月『ロング・ラン/The Long Run』は、前作から2年半のときを経て発表された。『ホテル・カリフォルニア/Hotel California』の大ヒットからのプレッシャー。レコーディングの遅れはアルバムの重い仕上がりに如実に表れていた。
それでも前作の勢いで『ロング・ラン/The Long Run』は、全米1位を獲得した。


イーグルス/ロング・ラン

僕が聴いていたのは、1980年『イーグルス・ライブ/Eagles Live』(全米6位)まで。解散は1982年5月であるが、フライとヘンリーはソロで活躍し、 MTV人気も伴い、現在までことあるごとに再結成・ツアーを繰り返してきてはいる。

アメリカ建国200周年に、頽廃をテーマにシニカルなメッセージ・アルバムをシーンに訴求し続けたのがイーグルスであり、“ホテル・カリフォルニア”の詞にもそれは顕著である。
ホテル・カリフォルニアでのパーティーに参加した頽廃の紳士・淑女たちの様子はさながらホーンテッド・マンションのような様相を呈しているのだ。決して乾いたカリフォルニアの青い空や空気感ではないし、そんなイメージに必ずこの曲をBGMに配する日本人は、かなりイーグルスを誤解している。
英語が理解できないため、ときにスリリングなロック性、ときに美しいハーモニーとメロディ、ドン・ヘンリーの切ないしゃがれ声からくる郷愁に誘われて大ヒットしただけの日本では、そういう意味で彼等の本意での認知はされていない。

明日、28年ぶりに発表される彼等の新作『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン/LONG ROAD OUT OF EDEN』は、試聴した限り2007年現在の録音技術とデジタル機器による完璧なイーグルス・サウンドに仕上がっている。

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28年のときを経て、今度こそ彼等のメッセージをリアルに受け止めるべく、明日僕もHMVへ行ってきます!



では、今回もアルバム順にイーグルスを辿ってみましょう♪
●The Eagles - Take It Easy

●The Eagles - Witchy Woman

●EAGLES - PEACEFUL EASY FEELING (1973)

●Outlaw Man - Eagles

●The Eagles-Desperado

●The Eagles / The Best Of My Love

●Eagles / Good Day In Hell

●The Eagles / One Of These Nights

●Lyin' Eyes by The Eagles

●The Eagles / Take It To The Limit

●Eagles- Hotel California (1976) Live!

●New Kid in Town - Live East Rutherford 1994 - Eagles

●The Eagles Life in The Fast Lane

●wasted time

●Eagles-The Last Resort

●EAGLES - THE LONG RUN

●The EAGLES - I can't tell you why

●Eagles - The sad cafe





♪イーグルス公式サイト




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  1. 2007/11/02(金) 14:49:39|
  2. 大人のロック。
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