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ボブ・ディラン2/大人になれないオヤジのロック68。

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1964年『時代は変わる(The Times They are A-Changin'』において、22歳のボブ・ディランの中で変革が起きる。
今になってアルバム・ジャケットのポートレートを見ると、モノクロで陰鬱そうな表情。あきらかにディランの苦悩、迷いを予感させるものである。


ボブ・ディラン/時代は変る(CD)

実際、1963年に録音された『時代は変わる(The Times They are A-Changin'』では、「僕は変化のただ中にいる。もっと多くの悲惨な事象とその当事者のことをを歌うことが必要だ」と語り、辛辣なプロテスト・ソングでちりばめられている。

しかし、音楽史上重要な変革を担った次作に至るディランのパーソナルな方向転換は、『時代は変わる(The Times They are A-Changin'』発売直前の1963年11月22日の歴史的な出来事によって、決定的となるのである。
ジョン・F・ケネディ暗殺事件である。

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大統領暗殺を知った彼は、「誰かが誰かを助けるために何か発言するなんて、もうやめるべきだ。奴らは“何かを変えたいなどと望むな”と人々に思い知らせようとしてるんだ」と、居合わせた友人に悲嘆の胸の内を語ったという。

そして、その悲嘆からプロテスト・ソングの可能性への不信とともに、当時時代を揺るがすリベラリストの代弁者に祭り上げられていた自信の危険をも感じ取っていた。大統領の次は“世代の歌声”である自分に銃口が向けられるのではないかという危機感である。
そしてボブ・ディランのメッセージは、よりパーソナルで内省的な方向へと向かったのだ。

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社会派フォーク=プロテスト・ソングの旗手としてのイメージから、しだいにより私的なアプローチへとシフトしたのが、1964年『アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン(Another Side Of Bob Dylan)』であった。


《送料無料》ボブ・ディラン/アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン(CD)

その頃、2度目のアメリカ・ツアーを行っていたビートルズが、ボブ・ディランにコンタクトしてきた。ここでディランがビートルズにマリファナを教えたとされる会見である。
結果、ジョンとジョージはディランからの影響を感じさせる多くの曲を残した。
一方、ディランも音楽生には現れなかったが、バンド編成へと踏み出すきっかけになったとされ、“朝日にあたる家”をアニマルズがエレクトリック・アレンジでカヴァーし、大ヒットしたこともかなりの刺激になったとされる。


ボブ・ディラン/NICE PRICE!: ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム(CD)

1965年『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム(Bringing It All Back Home)』で、それはさらに顕著になり、A面は、それまでの弾き語りからバック・ミュージシャンを控えたエレクトリック・サイド。B面はアコースティックとサウンド・メイクにおいても確実に変革を見せている。
特に“ミスター・タンブリン・マン”は、歌詞も含めロックのフィールドを意識した代表例であり、同年のアルバム『追憶のハイウェイ61(Highway 61 Revisited)』では、その路線をさらに突き進むことになる。


《送料無料》ボブ・ディラン/追憶のハイウェイ61(CD)

僕がボブ・ディランを意識するようになったのもこのアルバムで、“ライク・ア・ローリング・ストーン/Like A Rolling Stone”は、今も僕のフェイバリット・ソングである。
以前街角で、とある FMラジオ番組のレポーターからリクエストを促されたことがあるが、迷わずこの曲をリクエストしたほどだ。
マイク・ブルームフィールドのギター、アル・クーパーの印象的なオルガンとディランの疾走するような歌声は、ミドル・テンポでありながら旋風のようなスピード感を醸し、正に“フォーク・ロック”というスタイルを完成させた記念碑的な曲である。

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1966年『ブロンド・オン・ブロンド(Blonde On Blonde) 』では、そのフォーク・ロック・アプローチは決定的なものとなった。


《送料無料》ボブ・ディラン/ブロンド・オン・ブロンド(CD)

“ライク・ア・ローリング・ストーン”は、キャッシュボックス誌で初めてシングルチャートNo.1となり、ビルボードでは2位。因みに1位はビートルズの“Help!”だった。
他にも、“寂しき4番街/Positively 4th Street”、“雨の日の女/Rainy Day Woman #12&35”など、次々にヒット・チャートを賑わすことになる。

しかし、このディランの変革に対し、ファンの反応は二分した。
フォークの旗手ボブ・ディランを支持するファンと、エレクトリック・サウンドを受け入れるファンとに分断してしまったのである。

これはいまだに語り継がれる逸話であるが、1965年のニューポート・フォーク・フェスのステージに、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドを従え、エレクトリック・ギターを抱えてステージに立ったディランに、プロテスト・ソングを支持する反体制派のオーディエンスから、コマーシャルな路線に身を売ったと痛烈な野次が飛び、演奏を中断されてしまう。

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アコースティック・ギターを抱え、再びステージに戻ったディランが、泣きながら“イッツ・オール・オーヴァー・ナウ・ベイビー・ブルー/It's All Over Now,Baby Blue”を歌い、自らの旧作に決別を誓ったという伝説である。

だが先日NHKの深夜番組で、このエポック・メイキング的なライブが放映されたが、実際には歓声もあり、それほど酷い罵声をあびるわけではない。
サイ&バーバラ・リバコブが書いた伝記の中でドラマティックに誇張された話のようだ。
バンドで用意した曲だけでは時間が余ったため、アコギで再度ステージに戻って数曲を披露したに過ぎないという証言も存在する。

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いずれにせよ、この記念碑的な3作により、多くの新しいファン層を掴むことになった訳であるが、前回も書いたように彼は元々ロックン・ロールに憧れ、バンド活動し、親や教師を困惑させていた。
フォークの旗手として登場したときに抱えていたマーティンのアコースティック・ギターも、それまで所有していたエレクトリック・ギターを売って入手したものだったのだ。

前述した彼自身の内省的な試行錯誤はいうに及ばない事実であるが、そういう意味において、ボブ・ディランはロックに転向したのではなく、ロックに立ち返ったといえるのではないだろうか……、という記述をどこかで読んだが、まったく同感である。

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●Bob Dylan - The Times they are A-changin' -1965

●Bob Dylan - With God On Our Side

●Bob Dylan - To Ramona (Live 1965)

●Bob Dylan - It Ain't Me Babe

●Bob Dylan - She Belongs to Me III -1965

●Bob Dylan - Mr. Tanbourine Man (fragment) - 1965

●Bob Dylan - Gates of Eden - 1965

●Bob Dylan - Like A Rolling Stone 1966

●It Takes a Lot to Laugh, It Takes a Train to Cry

●Bob Dylan - Ballad of a Thin Man

●Bob Dylan - Queen Jane Approximately -1998 Brooksville

●Bob Dylan Highway 61 Revisited

●Bob Dylan Just Like Tom Thumb's Blues

●Bob Dylan Desolation Row Live 1966

●Bob Dylan - Rainy Day Women #12 and 35

●Bob Dylan - I want you

●Bob Dylan - Just Like A Woman





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  1. 2007/09/26(水) 19:37:38|
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ボブ・ディラン序章/大人になれないオヤジのロック67。

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前回のクイーンに続き、手つかずだった超大物、ボブ・ディラン。

1941年5月24日生まれ。
米国ミネソタ州デュルースにて、ユダヤ系の父エイブラハム・ジマーマンと母ビアトリス・ストーン(愛称ビーティ)のあいだに生を受け、ロバート・アレン・ジンママンと命名された。後にボブ・ディランと本名も改名しており、詩人のディラン・トーマスからとった、あるいは叔父のディロンからとも述べている。

1847年、6歳の頃に一家はカナダ国境近くのヒビングに移り住む。
鉱山の町ヒビングは、石採場への鉱夫を乗せるバスが路線拡張し、やがて全米を網羅するグレイハウンド・バスの発祥地でもある。

鉱山により潤っていたヒビングは、活気があり、ハンク・ウィリアムスに憧れバンドを組み、リトル・リチャードのカヴァーとオートバイに明け暮れる若者たちで賑わっていたという。

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幼いボブ・ディランには、鉱山バブルに湧くそんな若者たちが奇異な存在として映った。この頃から既にシニカルな視点を有する子供だったようだ。
幼少時からピアノを独学し、ロカビリー全盛下エルヴィス・プレスリーに憧れバンド活動に明け暮れ高校生活を送る。
ランボーヴェルレーヌブレイクといった詩人からも影響を受けながら何度となく家出を繰り返し、高校を卒業。大都市ミネアポリスのミネソタ大学に進学した。

だが、ほとんどキャンパスには行かず、ディンキー・タウンに入り浸る。
フォーク・ソングとの出逢いである。

この頃、自らをボブ・ディランと名乗り、ウディ・ガスリーの歌に運命的な出逢いをした。さらにビッグ・ジョー・ウィリアムスジェシー・フラーらのブルースにも感化される。

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地元のコーヒー・ハウスで歌うようになったディランは、同店で既に人気者だったジョン・コーナー、デイヴ・レイ、トニー・グローヴァーの3人から可愛がられ、トニー・グローヴァーにはブルース・ハープの洗礼を受ける。

憧れのウディ・ガスリーが療養するフォークの聖地、グリニッチ・ビレッジに思いを寄せながら、大学を中退。
1960年1月24日、ついにヒッチ・ハイクで雪の降るニューヨークに辿り着き、宿もとらずにビレッジのコーヒー・ハウス“カフェ・ホワァ?”に飛び込んだ。

しかしビレッジは想像した以上に、彼に幸運をもたらせることとなる。
エリック・フォン・シュミット、ディヴ・ヴァン・ロング、ウディ・ガスリーの親友ランブリン・ジャック・エリオットとの出逢いである。

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早々にプロとして、コーヒー・ハウス“ガスライト”などのステージに立つディランに、ハリー・ベラフォンテ、敬愛するビッグ・ジョー・ウィリアムス、キャロリン・ヘスターといったスターたちのレコーディングでハーモニカを依頼される。

特にキャロリン・ヘスターとのセッションで、CBSのプロデューサーであるジョン・ハモンドに見いだされたことがきっかけでコロンビア・レコードと契約を果たす。
これが全て19歳の田舎者ロバート・アレン・ジンママンが、ヒッチハイクでニューヨークに辿り着いた年に経験したことである。

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翌年1961年11月、デビュー・アルバム『ボブ・ディラン/Bob Dylan』は録音され、62年3月19日発売。トラディショナル・ナンバー中心でオリジナル曲は2曲。しかし、その天性のリズム感は既にフォークの衣を着けた“ロック魂”を内包していた。


ボブ・ディラン/ボブ・ディラン

1963年、セカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン/The Freewheelin' Bob Dylan』で、彼の強力な歌詞が注目された。
“風に吹かれて”“くよくよするなよ”は、ピーター・ポール&マリーにカヴァーされ、“戦争の親玉”“大三事世界大戦を語るブルース”“激しい雨が降る”により、闘う歌、プロテスト・ソングの旗手として脚光を得たのである。


《送料無料》ボブ・ディラン/フリーホイーリン・ボブ・ディラン(CD)

特筆すべきは、シンガー・ソングライターとしてのボブ・ディランのアプローチである。決して「戦争なんか辞めちまえ」とは歌わない。
「俺はこう思うんだが、あんたはどう思う?」と、あくまでディラン個人の主観からなる疑問を問いかけてくる。
このスタイルが圧倒的に世に受け入れられた。

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このアプローチは、70年安保に反目した日本の若者たちにも圧倒的な支持を得ることになる。
当時左翼思想へ走った学生たちは、決して全ての者が純粋な思想性から体制に反発したわけではないといわれる。
特に地方から中央の大学に進学した学生には、孤独から脱する方法としての学生運動参加という意味合いがあったそうだ。
何のこともない。友達がほしかったわけである。
だから、「あんたはどう思う?」という友好的なディラン的問いかけが、日本のそれらの学生たちの心中にも雨水のように浸透したのだ。

実はこの“大人になれないオヤジのロック”弟一回目にも告白しているが、僕は小学校高学年の頃、ビートルズから洗礼を受けながら、中学で“大フォーク・ブーム”に巻き込まれてしまった経緯がある。

岡林信康のメッセージは、もう完璧な「俺はこう思うんだが、あんたはどう思う?」だった。さらにボブ・ディランに憧れ模倣しつくした若者は、反体制を軸としながらも、個人的な恋を歌うディラン同様にごく私的なメッセージへと突き進む。
「俺は、神田川を見おろす四畳半のアパートで、一緒に暮らす恋人と銭湯に通っているけど、どうですか?」とメッセージしたのがかぐや姫の“神田川”であり、「僕は、旅をしながら、旅館で女といちゃいちゃしてるんだよ」と歌ったのが吉田拓郎の“旅の宿”なのだ。

安保や加速度的な高度成長に恩恵をこうむりながらも、不安・違和感をもつ当時の日本社会は“四畳半フォーク”を双手をあけて受け入れたのである。
この現象は、日本にロック・ミュージックをマスで浸透させる大きな足枷となったと、僕は思っている。

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現に今年66歳になるディランは、プロテスト・ソングの旗手から純然たるロック・ミュージシャンへと突き進んで行く。そのディランのスタイルを熱心に模倣したはずの“四畳半フォーク”の旗手たちはどこへ行ったのだ? ほとんどが演歌に流れているではないか!

あ、年がいもなくちょっと熱くなってしまいました。
次回はボブ・ディランが、いよいよロックへと突き進むあたりを考証してみたいと思います。


●Bob Dylan Talkin' New York

●Bob Dylan - Pretty Peggy-O - 1992 Aosta

●Bob Dylan - House Of The Rising Sun

●Bob Dylan - Song To Woody - 1999 East Rutherford

●Bob Dylan Blowin' In the Wind

●Bob Dylan - Girl From The North Country (1964)

●Bob Dylan's MASTERS of WAR

●Bob Dylan/The Band - Highway 61 Revisited (1969)

●A Hard Rain's A-Gonna Fall

●Bob Dylan - Don't Think Twice, It's All Right(DLB OUTTAKE)

●Bob Dylan "Corinna, Corrina" (Special McGari-Mix)

●Another Side of Bob Dylan - 05 I Shall Be Free No. 10





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  1. 2007/09/18(火) 20:15:22|
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クイーン序章/大人になれないオヤジのロック65。

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このロック・ブログで、未だ手つかずのビッグ・バンド。 僕の手持ちのいくつかの資料をもとに、その来歴を遡ってみたいと思います。

クイーンが1975年、日本のファンの前に初めてその衝撃の姿を現してから、はや32年。

そもそも、1968年晩秋にブライアン・メイ(G)とロジャー・テイラー(D)が出逢ったことからクイーンの歴史はスタートする。

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ブライアン・メイは、1947年7月19日ミドルセックス州に生を受けた。
7歳のときに父親に買ってもらったスパニッシュ・ギターを弾きはじめ、1963年16歳で、エレクトリック・エンジニアだった父ハロルドと19世紀の暖炉に使われていた木材でエレクトリック・ギターを自作した。

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以後、生涯のトレード・マークとなった“レッド・スペシャル”と名付けたこのギターと、コインをピックがわり生まれた独特のサウンドで、ブライアン・メイがギター&ヴォーカルを担当、友人がベース&ドラムスを担当し、ボ・ディドリークリフ・リチャードシャドウズヴェンチャーズといった曲をカヴァーし、多重録音テープを作りはじめた。
その後、その友人とともにメンバーを募り、マインド・ボグルズを結成。

さらに、ボッド・チャッピー&ザ・ビートルズを経て、近未来小説の題名から拝借した1984を結成。1984では、ビートルズザ・フースモール・フェイセズや米国のソウルやR&Bのカヴァーをプレイしていたという。

1984の活動を継続しながら、1965年にブライアン・メイはロンドン、ケンジントンのインペリアル・カレッジに進み天文学を学びはじめる。

1966年5月、インペリアル・カレッジで開催されたライブで、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスの前座をつとめ、ご多分に漏れずジミヘンから多大な影響を受け、ジミならぬ“ブライミ(Brimi)”と名乗ったといわれる。

1968年春、音楽性や学業の兼ね合いから1984を脱退したブライアン・メイとティム・スタッフェル(V)は、カレッジの掲示板でドラマー募集の告知を出す。
そこで、ロンドンのホスピタル・メディカル・カレッジで歯科の勉強をし、故郷のトゥルーロでクリーム、ジミヘンに刺激されたバンド、ジョニー・クエイル&ザ・リアクションズというバンドで活動し、ミッチ・ミッチェルキース・ムーンばりのスタイルを有するロジャー・テイラーが名乗りを挙げることとなる。

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そして晴れて、ここにスマイルが結成される。

スマイルは、1968年10月26日にインペリアル・カレッジで開催された、ピンク・フロイドの前座としてライブ・デビューを果たし、この頃にはバンド活動に専念するためにロジャー・テイラーはカレッジを辞め、アート・カレッジの友人とケンジントン・マーケットの洋服屋で働くようになった。

この友人こそが、アフリカ東部の英国の植民地ザンジバル島出身で、父親が英国政府の高等裁判所出収係という、ペルシャ系の両親をもつ若者ファロク・バルサラといい、“フレディ”というニック・ネームで呼ばれていたフレディ・マーキュリーである。

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フレディことファロク・バルサラは1958年12歳の頃、寄宿学校の仲間とロックン・ロール・バンド、ヘクティクスを結成し、ピアノを担当していた。

1964年、バルサラ家はロンドンに移住。偶然、ブライアン家から100ヤードの近所で生活しはじめる。

1966年に、イーリング・カレッジ・アートに進んだフレディ・マーキュリーは、ケンジントンの友人の家に間借りする。その友人がティム、ブライアン、ロジャーの仲間であり、4人の交流がはじまる。

ティム、ブライアン、ロジャーのスマイルの演奏に刺激されたフレディ・マーキュリーはマージー・ビート・グループのアイベックスで歌いはじめ、その後レッケージ、レッド・ツエッペリンに刺激を受けたブログレッシブ・ブルース・バンド、サワー・ミルク・シーで活動した。

フレディ、ティム、ブライアン、ロジャーは部屋をシェアするようになり、一方スマイルは1969年4月スピーク・イージーでのギグで、ロッド・スチュアートを担当していたマーキュリー・レコードのルー・ライズナーに認められ、シングル“Earth/Step On Me”を米国マーキュリーからリリースするが不発に終り、英国では未発表に終わる。

そのうち、ティムがライ・クーダーなどのアメリカン・ロックに傾倒し、スマイルを脱退。
ブライアンとロジャーは共同生活をしていたフレディをヴォーカルとし、ロジャーの地元からベーシストの友人を招き、スマイルを再編成。

新生スマイルは、1969年6月27日にトゥルーロのシティ・ホールでギグ。

続いて1969年7月25、トゥルーロのPJ'sでのギグで、バンド名をクイーンと名乗ったのである。

そして1971年2月、エレクトロニクスを専攻し大学を卒業していたジョン・ディーコン(B)が加入。
ここでクイーンの不動のメンバー構成が確立した。

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そんなクイーンもデビュー時は、不遇だった。

1972年末、晴れてEMIレコードと契約。

1973年4月9日、EMI開催のマーキュリー・クラブでのお披露目ギグに出演、7月にはデビュー・シングル“炎の
ロックンロール”と、アルバム『戦慄の王女(Queen)』を発表。

 
《送料無料》クイーン/戦慄の王女(CD)

しかし本国メディアは、HRを基盤としたヴィジュアル重視のステージには冷ややかだった。
“子供だまし”とレッテルを貼られ、デビュー以後マネージメントにも恵まれず、メンバーはブティックの店員をしながらのバンド活動を強いられたのだ。

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ところが、我が日本では真逆の現象が起きていた。

当時の日本では、ベイ・シティ・ローラーズ人気で、ブリティッシュ・アイドル・バンドが注目されていたのだ。

とりわけ日本のティーンには、クイーンの華麗なルックスが、まるで少女漫画から飛び出して来たような貴公子に映り、そのスピード&ドラマティックなサウンドとともに衝撃を与えたのである。
そう、クイーンは英国でプレイする前に、日本でスーパー・アイドルとなっていた。
蛇足ながら、1975年の初来日時は1200人ものファンが押し寄せ、空港は大パニックになった。

ビートルズやストーンズは別格として、当時の僕のロック・アイドルといえば、レッド・ツエペリンディープ・パープル。マニアックなところでピンク・フロイドだった。だから、その男臭いロックの世界に、黄色い声援と喝采に包まれて登場したクイーンを少々蔑視していたことは否めない。

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しかし、友人が1974年11月発売『Sheer Heart Attack』を買ってきて、彼の豪華なステレオ・セットの前に鎮座して、初めて聴いた“Killer Queen”には心底ぶっ飛んだ。友人と興奮しながら何回もターン・テーブルの上でレコードをひっくり返し、大音量で聴返した記憶が今も鮮明に蘇る。
それが僕の中で、クイーンが単なる“女子供のアイドル”から、稀に見るクリエーティブ・バンドと化した瞬間だった。

 
《送料無料》クイーン/シアー・ハート・アタック(CD)

『Sheer Heart Attack』は英国2位米国12位、シングル“Killer Queen”は英国2位、米国12位の成功を収め、バンドは新たなる実験的な作品に取り組み、180回以上に及ぶ多重コーラスのオペラ的アプローチからなる“ボヘミアン・ラブソティ”を録音。
だが、演奏時間が7分以上に及ぶ“ボヘミアン・ラブソティ”発表をEMIがためらい、6分弱に編集。結果、9週連続英1位のメガ・ヒットとなる。

以後、クイーンは数々の名作を世に送り出し、名実ともにビッグ・バンドへと成長し、英国本国はもとよメリカン・チャートまでも席巻した。

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1991年11月、フレディ・マーキュリーが、エイズによる肺炎が元で急逝。その活動に終止符を打つまで、クイーンは常に日本のファンを“恩人”として大切にしてくれた。

1976年『華麗なるレース(A Day at the Races)』中の、一部を日本語で歌った“手をとりあって”の収録は、そんなクイーンから日本のファンへの、感謝の意が刻み込まれている。



●Queen - Keep Yourself Alive

●Queen- Father To Son

●Queen - killer queen

●Queen- Brighton Rock

●Queen- Bring Back That Leroy Brown

●Queen- Stone Cold Crazy

●Queen - Bohemian Rhapsody

●Queen - You're My Best Friend

●Brian May Plays God Save The Queen

●Queen "Long Away"

●Queen- Somebody to Love

●Queen Good Old Fashioned Lover Boy

●Queen-We Will Rock You

●Queen - We are the champions, live

●Spread Your Wings






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ロックとロックな生き方を愛し、模索する1957年生まれ。
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