好きなギタリストにかまけて、ロック史の重要なアーティスト紹介がいくつか渋滞しております。
ザ・フーは、1962年に結成したロジャー・ダルトリーのバンド“The Detours”が原型となり、当時イギリスに同名バンドが存在したことで、1964年に“ザ・フー”と改名した
モッズ 系のバンド。
因に、同じモッズ系を代表するバンドには、スモール・フェイセズ(後にフェイセズ)がいた。
ロジャー・ダルトリー/Roger Daltrey(Vo) ピート・タウンゼント/Pete Townshend(G) ジョン・エントゥィッスル/John Entwistle(B) キース・ムーン/Keith Moon(Ds) 1957年、ピート・タウンゼントとジョン・エントゥィッスルはディキシーランド・ジャズのスクール・バンドを結成。後に“The Shadows”のコピー・バンドへと進化し、1962年に既にセミ・プロで活動していた上記“The Detours ”にジョン、ピートの順で加入した。
僕がザ・フーを知ったのは、1969年の『トミー(TOMMY)』である。
いうまでもなく、ロック・オペラと評されたこの壮大なストーリーは当時世界中で話題となり、映画にもなった。
僕は映画『トミー(TOMMY)』から先に観た覚えがある。
カウンター・カルチャー的な要素に満ちたこのアルバムや映像から、すっかり僕はザ・フーというバンドを誤解してしまうのである。
まして、1973年発表の『四重人格(QUADROPHENIA)』である。
ギネス・ブックに“世界で最も爆音で演奏するバンド”として公認されるザ・フーが、とても、前身がモッズ・バンドだったなんて当時は夢にも思わなかった。
しかし、ザ・フーの真価は初期にこそある。
今も1965年デビュー・アルバム『MY GENERATION』聴きながら書いているが、このアルバムには彼等の最初のシングル『I Can't Explain』(全英8位)、2ndシングル『Anyway Nnyhow Anywhere 』(全英10位)、『My Generation』 (全英2位)が収録されている。
曲によっては同年代の
ビートルズ や
ストーンズ の影響も見え隠れするが、特に『My Generation』は、「だらだら生きるくらいなら、死んじまいたい」的なメッセージが、当時の若者の心を代弁するかのごとく熱狂的に支持され、アメリカン・チャート100にもチャート・インする。
さらに彼等が支持されたのは、圧倒的なライブ・パフォーマンスである。
この頃の彼等はモッズ・ファンションに身を包み、ギター、アンプ、ドラム・セットなどを次々に破壊していった。これは以後のロックにおけるステージ上の楽器破壊のルーツでもある。
この頃のソング・ライティングは全てピート・タウンゼントが担当していた。
そして、ピートが腕を大回転させながらアップ・ピッキング(ウィンドミル奏法)する様、アンプにギターを叩きつけて完膚なきまで破壊する姿、キースがドラム・セットを粉々に破壊する姿は圧倒的であり、下記リンク動画で是非映像体験されることを、お薦めする。
以後1966年、2ndアルバム『ア・クィック・ワン(A QUICK ONE)』発表。イギリスからヨーロッパへと進出。
1967年にはアメリカ進出。
“モントレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバル”において、
ジミ・ヘン 、ザ・ママス&パパス、オーティス・レディングとともに出演。そのライブ・パフォーマンスで一躍世界へと知られることになる。
この年の暮れ、3rdアルバム『ザ・フー・セル・アウト(THE WHO SELL OUT)』を発表し、ビルボード最高位9位のトップ10入りを果たした。
1978年9月7日。
ザ・フーにおける唯一無二の天才ドラマー、キース・ムーンがアルコール中毒治療のための薬の過剰摂取により他界。
全編フィル・インと評されるほど手数の多いキース・ムーンのドラムは他に類を見ないほどであり、彼の死はバンドにおいて最悪の事態を招いた。
しかし、元フェイセズのケニー・ジョーンズを後任のドラマーとして迎え、活動を継続。
1983年に正式に解散したが、85年には再結成され現在に至る。
日本での評価が極めて低いバンドではあるが、そのたぐいまれなパフォーマンス以外でも、フィード・バック奏法、パワー・コードの発明、アンプ2段重ねを最初にやったのもザ・フーである。
余談ではあるが、ピート・タウンゼントはスタジオ・ワークにおいても大音量で演奏していたため、後年重度の難聴におかされていることでも知られる筋金入りのロッカーである。
有名な“サマー・タイム・ブルース”は、作曲者の
エディ・コクラン よりも彼等のそれが知られている。
●I Can't Explain(1965年PV) ●Anyway Nnyhow Anywhere(1965年Live) ●モントレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバル、My Generation (1967年) ●1969年ウッドストック、Summer Time Blues ●Tommy Can You Hear Me ●Tommy-Overture ●Tommy(映画) ●Keith Moon RIP ●ADROPHENIA(映画) MY GENERATION
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2007/04/24(火) 18:10:20 |
大人のロック。
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いったい、HR/HM系のCDを最後に買ったのはいつだったろう……。
とある、雑誌の隅っこに掲載されていた記事に、久々に血が騒ぎました!
先週水曜(4月11日)。
ナイト・レンジャー 9年ぶりの新譜『
ホール・イン・ザ・サン(Hole In The Sun) 』が、 日本先行発売されました~っ!!
僕は16日に購入。
みなさん、今回のアルバムは是非日本盤を買ってください。
前回ご紹介した動画の、あの “
Don't Tell Me You Love Me ”アコギ・バージョンがボーナス・トラックとして日本盤にのみ収録されています。
そして、ライナー・ノーツは懐かしの“伊藤政則/MASA ITO”が、書いてます!
1989年に解散状態に入ったナイト・レンジャー。
1996年にオリジナル・メンバーで復活日本公演、翌97年『NEVERLAND』発表。
1998年『SEVEN』発表後、各メンバーはソロ活動に入り、また活動休止状態にあった。
そして、2003年に全米ツアー。同年12月に来日公演。
2005年、結成25年周年記念アルバム『HITS ACOUSTIC & RARITIES』発表。
同年暮れには、遂にニュー・アルバムのソング・ライティング開始!
日本盤発売元キング・レコードのプレス・リリース用キャッチ・コピーは“新・緊急指令発動中!”だった。
そして一年と4ヶ月を要してニュー・アルバムは完成した!
現、メンバーはオリジナル・メンバー中、キー・ボードのみGREAT WHITEのマイケル・ローディーという、前回の来日公演時のメンバー構成。
・
Jack Blades (Lead Vocals & Bass)
・
Brad Gillis (Guiters & Vocals)
・kelly keagy (Drums & Lead Vocals)
・
Jeff Watson (Guiters & Vocals)
・
Michael Lardie (Keyboards & Vocals)
そして特筆すべきは、下の楽曲の( )内の表記。
ソング・ライティングしたメンバーがメイン・ボーカルを担当している!
01.Tell You Vision (Blades) 02.Drama Queen (Gillis) 03.You're Gonna Hear From Me (Blades & Gillis) 04.Whatever Happened (Blades) 05.There is Life (Keagy & Blades) 06.Rockstar (Blades & Gillis) 07.Hole In The Sun (Blades & Keagy) 08.Fool In Me (Keagy & Blades & Lardie) 09.White Knuckle Ride (Gillis) 10.Revelation 4AM (Gillis & Keagy & Blades) 11.Wrap It up (Watson) 12.Being (Watson) 13.Don't Tell Me You Love Me (acoustic/Bounus Track for JAPAN) 仕上がりはどうかって??
この10日間あまり、僕は毎日10回以上聴き込んでおります。
キー・ボードが主張しない分、迷走していた頃の妙な中途半端さは皆無である。
ブラッド&ジェフ の、超絶ギター・バトルは必聴!!!
6/10(日)東京・渋谷C.C.Lemonホール。
6/11(月)愛知・名古屋クラブクアトロ
6/13(水)大阪・松下IMPホール
問)
ウドー音楽事務所 来日公演!!!(どうする?)
うう。行こうかなあ?!
逡巡しているが、どうやらジェフ・ワトソンは来日せず、代役ギタリストが同行するという。
ウィンガー、
ホワイト・スネイク にいた
レブ・ビーチ が代役に抜擢された模様だ。
なるほど、ジェフっぽい♪
しかし、だ。
ブラッド&ジェフじゃなくちゃ、意味ないじゃん……。
●ブラッド・ギルス・ギター・ソロ! ●ジェフ・ワトソン・ギター・ソロ! ●ナイト・レンジャー&テスラ(まだ、いたんだ?!) ●2005年のナイト・レンジャー! ●1985年、ブラッド・ギルスも参加した夢の饗宴。Hear n' Aid-Stars!(泣いちゃうよ……) ※ナイト・レンジャー公式HP 『 Hole In The Sun 』
↑なんと、今週オリコン初登場31位、赤丸 上昇中!! Blog Ranking
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2007/04/18(水) 20:57:55 |
大人のロック。
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ハード・ロックをハード・ポップに進化させ、パフォーマンスや視覚効果をも取り入れ、文字通りハード・ロックのエンタテインメント化を遂行した、いわゆる“ビジュアル系バンド”の先駆こそが、Kissである。
今回はそのギタリスト、エース・フューレイにスポットを当て、
Kiss の功績にふれてみたい。
エース・フューレイ(ポール・ダニエル・フューレイ)は、1951年4月27日、ニューヨークのブロンクスで3人兄弟の3男として生を受けた。
治安の悪いことで有名で、ヒップ・ホップ誕生の地とされるブロンクス地区。
そんな街に暮らしたエース・フューレイは、喧嘩に明け暮れる札付きの不良だったという。
彼の顔がちょっと歪んでいるのは、喧嘩のとき酒瓶で殴られ、整形手術をしたためだといわれる。
音楽一家に育った彼は13歳でロック・スターを志し、ギターを手にしたのは14歳。
ご多分に漏れず、父親からのクリスマス・プレゼントだった。
三つのハイスクールから放校されたあげく、夜間学校に身を寄せる。
影響を受けたギタリストは、ピート・タウンゼントとジェフ・ベックだが、18歳まであえて
ビートルズ を聴かず、
ストーンズ を聴きまくったそうだ。
ここにも、彼の崩落ぶりがうかがえるというもので、同じ反逆児として、ストーンズに傾倒したのである。
彼がギターを手にしたとき、初めて弾いたのが
ハーマンズ・ハーミッツ の“ミセス・ブラウン”だったとされる。
そして初めてのバンドは“FOUR ROSES”。
そう、大好きなバーボンの名を拝借したのだ。
常に酒瓶片手に、彼がガラガラ声で陽気にしゃべるのは酒を口に含んでいるときだけだった。
それでも、有名になって大金を掴む夢を見続けた。
昼間は郵便局に務め、夜間はタクシーの運転手もした。
そんな彼にもある日、チャンスが訪れる。
1972年秋、そのとき歴史が動いた。
ジーン・シモンズ(B)、ポール・スタンレイ(G)、ピーター・クリス(D)の無名バンドが、“ヴィレッジ・ヴォイス”誌に「リード・ギタリスト募集」広告を出しのた。
50名の応募者の中、無精髭と、赤とオレンジの互い違いのエース社のスニーカーで、30番目にオーディションを受けたエース・フューレイは、そうして当時無名だった“Kiss”の新たな血としてリード・ギタリストに迎えられたのだ。
Kissは1972年、ジーン・シモンズとポール・スタンレイによって結成。
結成当初は名無しバンドであったが、73年頃Kissと命名された。
当時グラム・ロック・バンドのように女性のような化粧をしてステージに上がっていた。
その延長であの独特のメイクに発展、素顔を隠したことであのKissのキャラクターが確立した。
それが功を奏しライブ活動で着々と頭角を表し、遂にカサブランカ・レコード設立第一番目のアーティストとして契約を勝ち取ることに成功する。
メンバーのニック・ネームがそれぞれのメイクの基であり、
ジーン・シモンズ=Demon エース・フューレイ=Space-ace ポール・スタンレイ=Star Child ピーター・クリス=Catman である。
1974年『地獄からの死者~キッス・ファースト(Kiss)』で、デビュー。
75年の『アライブ~地獄の狂獣(ALIVE!)』(ライブ盤)でブレイクした。
1980年以降、メンバー間の摩擦が生じメンバー・チェンジ。メイクを捨て素顔で活動し話題となる。95年、MTVアンプラグドにオリジナル・メンバーで復活、再びメイクを施し活動を再会した。
日本では聖飢魔II、X JAPANなどがリスペクトしたことで知られ、最近ではキャノン・イオス・キッスのCMでの子供たちのメイク、曲( I was made for Loving You )が話題となった。
エース・フューレイのギター・スタイルは、お馴染みのギブソン・レスポール+マーシャルのオーヴァー・ドライブ・サウンド。
オーソドックスを地でいく、彼のスタイルは
リッチー・ブラックモア や
エドワード・ヴァン・ヘイレン のようなトリッキーで派手な要素は皆無である。
冒頭にもふれたように、Kissはヴィジュアルを重視したポップ・ロック・バンドであり、決してギター・バンドではない。
トリッキーなことが最良なのではなく、バンドの一員としてバンドの個性を踏まえた堅実な“仕事”こそが最善であるということの代表が、エース・フューレイのギター・スタイルである。
Kissの代表曲“ラブ・ガン”のソロ頭を見ても、出だしは
ツェッペリン の“グッド・タイムス・バッド・タイムス”的なフレーズ、パターンでリフレインしていくフレージングは
クラプトン 、ベック、
ジミ・ヘン 、
ジミー・ペイジ 、リッチーなどの影響を感じさせるものであり、それらを素材として組み入れるセンスは、やはりKissというビッグ・バンドのリード・ギタリストたる由縁なのである。
エース・フューレイは、ミュージシャンをやめたら油絵を描いて暮らすことが夢だそうで、実際Kissのあの有名なロゴ・マークも彼がデザインしたものだ。
1982年にKiss脱退。ソロ活動。
96年から再結成kissに参加。
2002年以降、ソロ活動に戻るが残念ながら現在まで、隠遁状態が続いている。
下記直リン動画に、ソロ活動の模様が観られるがワイルドかつルーディーな臭いは、
キース・リチャーズ を彷彿するものがあると、僕は思うのだが……。
●History of Kiss ●Rock-n-Roll All Night ●Love Gun ●Hard Luck Woman ●I was made for Loving You ●Sure know Something ●Ace Frehley Guiter Solo Tokyo Japan ●Ace Frehley & Shock Me ●Ace Frehley Rock Soldiers ●Ace Frehley Band Breakout ★試聴は
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2007/04/17(火) 12:06:28 |
大人のロック。
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「ただ闇雲に突っ走ればいいってもんじゃない。要は魂さ」
アンガス・ヤングの人生訓である。
1959年、スコットランドのグラスゴーで生まれたアンガス・ヤングが、まだごく幼い頃、1963年にヤング一家はオーストラリアのシドニーへ移住した。
アンガス兄弟は上からジョージ・ヤング、マルコム・ヤング、アンガス・ヤング。
まず、長男のジョージ・ヤングがイージー・ビーツというバンドを結成し、当時ミュージック・シーンが確立されていなかったオーストラリアで一大旋風を巻き起こす。
このときアンガス・ヤングはまだ7歳であったが、間接的にミュージック・ビジネスに浸っていたわけだ。だから、ジョージの影響下、次男マルコムと三男アンガスもごく自然にギターに接することとなる。
ジョージによってマルコムがギターを習い、さらにマルコムはアンガスにギターの手ほどきをする。だが、習い始めこそマルコムに追いつけ追い越せだったアンガスは1~2年も経つとマルコムを超えてしまう。
とりわけ当時からアドリブに長け、独自のコードを次々に作り出し自らのスクール・バンドの演奏に活用したそうである。
因みに長男ジョージ(SG)は、イージー・ビーツのハリー・ヴァンダ(LG)とともに、後にAC/DCの初期アルバムのプロデュースを手がけることとなる。
1973年、アンガスの中学校卒業と同時に、マルコムはそれまで活動していたブギー・バンドを脱退し、12月31日アンガスと共に
AC/DC を結成する。
当時から爆音で演奏していた彼等を、姉のマーガレット・ヤングが掃除機の裏側のAC/DC(交流・直流兼用)表示から、掃除機のように騒々しいバンドだと例えたことがバンド名の由来だとされる。
余談ではあるが、 AC/DCとはバイ・セクシャルを表す隠語でもあり、結成当初はよくゲイ・バーから出演依頼が殺到したそうだ。
そして、この頃バンドの機材車のドライバーだったのが後のボーカリスト、ボン・スコットであった。
1974年9月、正式にボン・スコットをボーカリストに迎え、翌年1月、わずか10日間で録音した
デビュー・アルバム『ハイ・ヴォルテージ(High Voltage)』、同年12月のセカンド・アルバム『TNT』はオーストラリアのアルバム・チャートNo.1を獲得する。
初のイギリス公演では、アンガスのプレイが話題となり英国で無名だったAC/DCは僅か2ヶ月後にはメジャー・バンドにその名を連ねる。
特に英国大手音楽誌“サウンズ”が、 AC/DC、アンガス・ヤングを強力にバック・アップした。
1976年には米アトランティックと契約し、アメリカ進出。
以後、AC/DCの快進撃は留まることを知らなかったが80年2月19日の
ボン・スコットの死 でバンドは転機を迎え、新たなボーカリスト、ブライアン・ジョンソン加入で2003年頃までツアー活動が確認されている。
バンドに圧倒的なロック・キッズの支持をもたらしたのは、紛れもなくアンガス・ヤングであった。やはり姉のマーガレット・ヤングの提案からなる、スクール・ハット、半ズボン、ネクタイ、Yシャツ、ブレザーというスクール・ボーイ・スタイルに、ギブソンSGという出で立ちは充分にユーモラスでありセンセーショナルではあったが、人々の眼が釘付けになったのはそれらの奇妙なコスチュームを凌駕するアンガスの年齢不相応なギター・テクニックと、一瞬たりとも止まることのないステージ・アクションだった。
アンガス・ヤングは主にギブソンSG+マーシャルのオーヴァー・ドライブ・サウンドをトレード・マークとし、シンプルなチャック・ベリー・スタイルを軸にブルース・スケールのペンタトニック・ノート(ルート、♭3rd、4th、5th、♭7th)以外の2nd/9th、♭5th、6thも活用したフレージングが特徴的である。
『地獄のハイウェイ(Highway to Hell)』収録の“Shot Down in Flames”におけるギター・ソロがその典型で、2小節目ではチャック・ベリー・フレーズ、4、7小節目では 6th、♭5th、 2nd/9thを使った16分音府の早弾きで、アンガス・ヤングのギター・スタイルの要となっている。
アンガス・ヤングの近影は兄マルコムと打って変わり、お寒い頭になっているが、
ローリング・ストーンズ のミックやキースに敬愛され、ストーンズのツアーに参加したりしている。
また蛇足だが、80年代からオランダのGelderland townに住むアンガスは、今年オランダのQuoteというビジネス誌の長者番付に名を連ねたそうである。
なんとその資産は約113億2682万円だという……。
●故ボン・スコット在籍時のアンガス・ヤング!TNT(1976TV Live) ●故ボン・スコット在籍時のアンガス・ヤング! ●故ボン・スコット、Shot Down in Flames! ●アンガス・ヤング、自画像を描く! ●アンガス・ヤング、ギター・レッスン! ●Let's get it up!(Live) ●アンガス・ヤング、インタビュー!(2000年) ●AC/DCベルリン・ライブ(2003年Live) ●AC/DC with Rolling Stones! Blog Ranking
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2007/04/10(火) 17:41:40 |
大人のロック。
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「ヘヴィな人生が、ヘヴィなサウンドを生むんだ」
トニー・アイオミの人生訓だそうだ。
本来ならば、大人になれない~シリーズに取り上げるべきブラック・サバス(1969年~)であるが、僕にとってのサバスは
オジー・オズボーン への思い入れが強く、ギタリスト、トニー・アイオミにスポットを当てることで、ここでまとめたいと思います。
トニー・アイオミ(アンソニー・フランク・アイオミ)は1948年2月19日、英国バーミンガム地方で生を受けた。
幼少時代のエピソードはあまり知られていないが、当初はドラマーに憧れていたそうで、後に誕生日にもらったギターに目覚める。地元のローカル・バンドを転々としながら活動を続け、1967年19歳の暮れに自らのバンド“ジ・アース”を結成する。
ジ・アースには、既にオジー・オズボーン(V)、ビル・ワード(D)、ギーザー・バトラー(B)が在籍しており、当時はジャズ、ブルース色濃い演奏スタイルで69年までにハンブルグのスター・クラブやヨーロッパ諸国を巡り、バーミンガムでもそこそこの名声を得ていたという。
1969年後半には、バンド名を“ブラック・サバス”と改め、いよいよ伝説のHM路線へと踏み出した。しかし同年暮れ、ジェスロ・タルにミック・アブラハムスの代わりで加入が決まりトニーは産声をあげたばかりのサバスから脱退してしまう。
皮肉なことにジェスロ・タルでの演奏はトニーの思惑と違い、2週間でサバスに舞い戻ることになる。トニーのこの短期間の脱退は、残されたサバスのメンバーにも、トニー自身にもHMへのパッションを再確認させることになり、以後78年まで一度もメンバー・チェンジすることなくブラック・サバスの歴史が疾走することになるのである。
1970年2月13日の金曜日、ヴァーティゴ・レコードよりデビュー・アルバム『黒い安息日(Black Sabbath)』が発表される。
ブラック・サバスとは黒い安息日の意であり、64年にヒットした同名ホラー映画より、ベースのギーザー・バトラーが命名した。バトラー曰く、映画の長蛇の列を目撃し「人間は恐怖を求める」というヒントを得たと語っている。
そこで、“人を怖がらせる音楽”オカルト的なバンド・コンセプトが固まった。
この彼等の暗中模索はデビュー・アルバムで見事的を射ることとなり、一晩20ポンドのギャラで飢えをしのいだ暮らしから救われた。現在の1UKポンドは233円前後であるが、当時の彼等がいかに薄給であったかが推測される。
俄然、発奮した彼等は同年9月にはセカンド・アルバム『パラノイド(Paranoid)』を発表し、シングル“パラノイド”の大ヒットで世界的な脚光を浴びる。
以後1980年、あのロニー・ジェイムス・ディオがオジーの後継となる『ヘブン&ヘル(Heaven and Hell』まで、7枚のアルバムを発表し、現在までブリティッシュ・ヘヴィ・メタル・マスターとして、
ブラック・サバス は君臨し続けている。
昨今の超絶テク時代において、トニー・アイオミのギター・プレイは霞んでしまいがちだ。
しかし、トレード・マークであるギブソンSGとマーシャルから繰り出されるマイルドなオーヴァー・ドライブ・サウンド。
エレクトリック・ブルース・ギター奏法をベースにしたダウン・チューニングのペンタトニック・スケールやルート(コードの根音)&5thのいわゆる5度奏法によるリフなどは、トニー・アイオミにより一般化したものである。
実は彼は青年時代に工場勤めをしていたとき、電気溶接作業中に誤って右手の中指と薬指の先端を切断してしまう。これは左利きだった彼にはギタリストとして致命傷だったが、やはり同様に2本の指を失ったジャズ・ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの存在に勇気付けられ失った部分にプラスティックのチップをはめてプレイしたのだ。
失った指のハンディからダウン・チューニングに至り、よりヘヴィな音量を目指し、指の負担が少ない5度奏法に目覚めたとされ、ある意味、指の損傷こそが“歴史を動かした”といえる。
現在までHMのバッキング・プレイ(リフ)がその枠から逸脱していないことにおいて、彼の偉業を惜しみなくたたえるものである。
※なんと今年で59歳になるトニー・アイオミの娘トニー・マリー・アイオミは、
ジューダス・プリースト のイアン・ヒル(B)の息子と“
Lunar Mile ”というバンドで活動中。
時代はかわる……。
●Black Sabbath(70年LivePV) ●Nib(70年Live) ●Paranoid(Live) ●Iron Man(Ozzfest) ●Hole in the Sky(75年Live) ●トニー・アイオミ、ギター・ソロ(78年Live) ●ロニー・ジェイムス・ディオ、Heaven and Hell(92年Live) (追記)探してみれば、あるもんです!
本文でもふれたが、これは
ジェスロ・タルでのトニー・アイオミ ではないか?
クレジットには1968年とあるが間違いではないか??
ストーンズのTV番組出演時の動画であるが、容姿は間違えなくトニー・アイオミと思えるが。
少なくとも、こちらの1969年一月とクレジットされている
ジェスロ・タルのギタリスト は右利きである……。
皆さんの見識を仰ぎたい。
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2007/04/03(火) 15:29:46 |
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