
盆明け、都会にはまた人々が集まってきました。
いよいよ、秋の気配漂う今日この頃ですが、まだまだ暑いです!
暑いといえば、熱いラテン・フレイバーをブルース、ジャズ、ロックに昇華させ、1969年のウッドストック・フェスティバルで衝撃的なデビューを果たした伝説のギタリスト、
カルロス・サンタナにスポットをあててみたいと思います。
「カルロス・サンタナは、僕のリストの上位にランクされるけど、ピュアな精神性と情緒性からいったら、彼がナンバー・ワンだよ」(
エリック・クラプトン談)
1947年7月20日、メキシコ、オートランテ・デ・ナヴァロにて、カルロス・サンタナは生を受けた。
カルロスが5歳のときに、
マリアッチ・バンドのヴァイオリニストだった父ホセ・サンタナは、彼にヴァイオリンを教えはじめた。
だが、
ベートーヴェンやヴォン・スッペの“
詩人と農民の序曲(Poet and Peasant Overture)”といったクラシック・ミュージックの練習は、幼いカルロスには退屈なものだったという。
そんなカルロス少年が、父親が所有するナイロン弦のアコースティック・ギターへと興味が移るまでさほど時間はかからなかった。父や兄から教わったメキシカン・フォーク・ソングの基本コードでの練習に明け暮れ、譜面は読めなかったが、『スケールとメロディの法典』といった音楽理論書を何冊も読みふけった。
1958年11歳のとき、ティファナで
ボビー・ブランド、
レイ・チャールズ、
B.B.キング、
リトル・リチャードなどのコピー・バンドを観てロックン・ロールに目覚める。
この頃、父親はカルロスに最初のエレクトリック・ギターを贈っている。
カルロス・サンタナの朧げな記憶によれば、それは
ギブソンの古いフルアコ・ボディのギターだったとされる。
1962年、サンフランシスコに移住。
ここで白人ブルース・アーティスト、
ポール・バターフィールドやクリームの音楽を知ることとなり、特に
クリーム『Fresh Cream』から多大な影響を受けた。
さらに、
マディ・ウォーターズ、
リトル・ミルトン、
オーティス・ラッシュ、
ジミー・リードといったトラディショナル・ブルース・アーティストや、
ジェイムズ・コットン、
リトル・ウォルター、
ジュニア・ウェルズなどのハーモニカ・プレイヤーにのめり込み、近年で最もカルロスに影響を与えているブルース・ギタリストは、
スティーヴィー・レイ・ヴォーンである。
1960年代後半、カルロス・サンタナはジャズに傾倒するようになる。
ジョン・コルトレーン、
チャールズ・ロイド、
マッコイ・タイナー、
セロニアス・モンク、
マイルス・デイヴィス、
ジョン・ハンディーなどのジャズ・プレイヤー、
ウェザー・リポート、
ザ・クルセイダーズなどのジャズ・バンドを好んで聴いた。
またジャズ・ギタリストでは、
チャーリー・クリスチャン、
ジャンゴ・ラインハルト、実際にクラブへ足を運んで聴いた
ウェス・モンゴメリーや
ハーヴィー・マンデルも彼をジャズの虜にした。
1966年24歳のとき、フィルモアでポール・バターフィールドを観て、知り合いだったキーボード奏者のグレッグ・ローリーと最初のバンド、カルロス・サンタナ・ブルース・バンドを結成。この頃、1963年製ギブソンSGを使っていた。
蛇足ながら、1973年にはカルロスに見いだされたニール・ショーンとグレッグ・ローリーが
ジャーニーを結成することとなる。

1968年、『The Live Adoventures of Mike Bloomfield And Alkooper』で、レコーディング・デビュー。
この頃には、1968年製ギブソン・レスポールを入手。
1969年、コロンビア・レコードと契約。
デビュー・アルバム『Santana』をひっさげて、ウッドストック・フェスティバルに登場。このときLSDによりトリップ状態だったことを、後年告白している。
ここでの使用ギターは、60年代後期と思われるギブソンSGだった。

1970年代初頭、トーン・バリエーションを得るための6ポジションからなるロータリー・スイッチをマウントしたギブソンL-6Sを使用。
後年、ヤマハと契約したカルロスは、複雑なカスタム・インレイが施された、2ハム・バッカー・ピック・アップ、ダブル・カッタウェイのソリッド・ギター、
ヤマハSG-2000を使うこととなる。

1970年代後期になると、
ジョン・マクラフリン、
ジョージ・ベンソン、
パット・マルティーノを好んで聴くようになる。
1973年、
伝道師スリ・チンモイのスピリチュアル・ライフを実践。ジョン・マクラフリンとのコラボ『Love Devotion Surrender』発表。
「神から授かったものを、自分のサウンドや個性にすることに、相変わらず苦労しているけど、常に自分を超越したところに置くことができれば、何をプレイするかなんて関係なくなるんだ」(カルロス・サンタナ談)

カルロス・サンタナにはヴォーカルをフィーチャーしたヒット曲が多いが、これは
ジョニー・マティス、
アレサ・フランクリン、
ディオンヌ・ワーウィック、
マーヴィン・ゲイなどのレコードに合わせて弾き、ヴォーカル・ラインを自分のプレイに写し取る訓練を積んだ成果である。
「アレサ・フランクリンを聴くと、出てくる音がそりゃ凄くて、全身に鳥肌が立つほどカッコいいんだ」(カルロス・サンタナ談)
また、ロック・アーティストからの影響はほとんどないが、
ビートルズ、
ヤード・バーズ、エリック・クラプトン、
ジミ・ヘンドリックスは唯一の例外だったとされる。
カルロス・サンタナといえば、ラテン、アフロ・キューバン・リズムのテイストが欠かせない。これは
ガボール・ザボや、ブラジルのギタリスト、
ボラ・セテ、フラメンコ・ギタリストの
パコ・デ・ルシアといったスパニッシュ・ギタリストや、
ボブ・マーレーからの影響が強いという。

1980年代、
ポール・リード・スミスの1979~1981年製造のギブソンPAFハムバッキング・ピック・アップ搭載モデルを使うようになる。
使用ピックは大型の三角形のものを好み、 使用弦は1970年代後半には「.008 .011 .014 .024 .032 .042」のゲージを使用。1980年代からは、アーニー・ボール及びダダリオの「.009~.042」のセットを使っている。

このように彼の音楽には、ソリッド・ボディーのデュアル・ハムバッカーから得られる分厚い、サスティーンの効いたサウンドが欠かせない。
メロディアスなシングル・ノート・ラインからつぐみ出される、メロディのストーリー性を強調する彼のプレイは、ペンタトニック・マイナー、ブルース・スケール、ダイアトニック・モード、ドリアン・モードを基調としながら、ハーモニック・マイナー・スケール、アルペジオ的なメジャー・トライアドを駆使し、ジャズ・サックスのフィーリングも垣間見せてくれる。
そして特筆すべきは、ときに1分にも及ぶサスティーンである。
「まず、自分とアンプをつないでいるヘソの緒を探すことさ。弦を弾いたらすぐに自分とスピーカーの間の音波を感じて、それをキャッチする。ちょうど2台の列車を連結するみたいにね」(カルロス・サンタナ談)
最初のレコーディングでは、
フェンダー・ツイン・リヴァーブが使われたが、それ以前の使用アンプは残念ながら詳細は証されていない。
1970年代中期には、兄の薦めで
メサ/ブギーを使いはじめる。
「兄のホルヘが、このアンプ試してみろよって持ってきたんだ。使ってみたら気が狂ったみたいにサスティーンが効くし、音はピュアだし、それ以来兄貴に返すのはやめたよ」(カルロス・サンタナ談)
またステージでは、ディストーションを効かせたバッキング用に、
マーシャル100Wを使うこともあり、ヘッドはアルテック12インチ・シングル・スピーカーを入れた背面開放型の小型キャビネットで鳴らしている。
「小道具(エフェクター)って、みんな同じサウンドになってしまうだろ? そんなものじゃなくエモーションが全てを生み出す源なんだ」(カルロス・サンタナ談)
そう公言してはばからないカルロス・サンタナの数少ないエファエクターには、アイバニーズもしくはボスのコーラスと、モーリーのワウ・ペダルというシンプルなものである。

親日家として知られる彼は、日本との関わり、エピソードも数多い。
あの
高中正義もカルロス・サンタナの熱狂的な支持者で、高中もヤマハSG-2000を使用し、1981年には高中・サンタナの
ジョイント・コンサートも開催された。
また、初来日公演の模様が1974年『ロータスの伝説』として発表され、このアルバム・ジャケットは、カルロスが“魂の兄弟”と敬愛する、横尾忠則氏デザインによる
22面に及ぶ驚異的なものである。
世界的なヒットを記録した“哀愁のヨーロッパ”が収録された1976年の名アルバム『アミーゴ(Amigos)』のアルバム・ジャケットも横尾忠則のデザインであった。
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サンタナ/「アミーゴ!」同胞 僕にとってカルロス・サンタナといえば、なんといっても1970年発表の『天の守護神』からのシングル“ブラック・マジック・ウーマン”である。
当時ライブで聴いたというより、フリートウッド・マックのピーター・グリーン作詞・作曲のこのカヴァーは世界的なヒットもあって、いまだにローテーションされる名曲である。
ラテン特有の打楽器をメインにしたアレンジ、キーボードの効果的なグルーブ、そして独自のタメが印象的なカルロスのギター・ソロ!
カルロス・サンタナは、ロック史上に“ラテン・ロック”という新たなる境地を築いたギター・ヒーローである。
●Santana - Soul Sacrifice (Woodstock 1969)●Carlos Santana-Black magic woman●SANTANA - Treat (1970)●Carlos Santana - Song of the Wind●Incident at Neshabur●Oye Como Va - Carlos Santana Chester Thomson●Santana - Hold On●SANTANA & JOHN McLAUGHLIN●Carlos Santana & Los Lonely Boys●Carlos Santana - Maria Maria●Santana & Clapton - Jingo●Carlos Santana & Jeff Beck! Live in Japan!●Santana - Europa (Live in Tokyo, 1991)●Carlos Santana & Steven Tyler - Just Feel Better●Carlos Santana & ManaBlog Ranking
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- 2007/08/21(火) 19:10:39|
- 大人のロック。
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| コメント:4
初めまして!
サンタナかっこいです。彼のギターソロは泣けますね!!
すごいテクニックではなく、基礎的なことでプレイしている。そういうギタリスト好きです。
まだ始めたばかりですが、ギターもやっています。
中3ですが、周りにサンタナ好きなやついません。悲しいです・・・
これからもどんどん利用しますので、よろしくお願いします。
- 2008/07/25(金) 17:43:47 |
- URL |
- ドラさん #-
- [ 編集]
ドラさん
>初めまして!
こちらこそ、はじめまして!
ご訪問&コメント感謝致します。
>サンタナかっこいです。彼のギターソロは泣けますね!!
すごいテクニックではなく、基礎的なことでプレイしている。そういうギタリスト好きです。
まだ始めたばかりですが、ギターもやっています。
中3ですが、周りにサンタナ好きなやついません。悲しいです・・・
これからもどんどん利用しますので、よろしくお願いします。
ありがとうございます。
日本ではサンタナのシンパとして、サディスティック・ミカ・バンドの高中正義が有名です。
で、高中が念願叶って、サンタナとジョイントしたとき、実はサンタナの方が早弾きだった! という有名な逸話があります(笑)。
また、遊びに来て下さいね♪
- 2008/07/29(火) 13:01:46 |
- URL |
- noodles2 #-
- [ 編集]
横尾忠則横尾忠則(よこおただのり、男性、1936年6月27日 - )は、兵庫県西脇市生まれの美術家、グラフィックデザイナー。神戸新聞社にてグラフィックデザイナーとして活動後、独立。1980年7月にニューヨーク近代美術館にて開催されたパブロ・ピカソ|ピカソ展に衝撃を受け...
- 2007/09/07(金) 06:18:48 |
- らんの部屋